昭和3年(16陽会)1928年

NO8

《武 陽》
▽准決勝 下関商業戰 
 昭和3年11月3日(土)甲子園
第一優勝候補平安中學を撃退し前日の疲れも何處へやら、優勝巻内に入る。

第一回。(下)武久中前安打、川島も四球で危機早くも襲ふ。されど武久離壘して刺さる。危機去りしと思はれしも太田の左翼野手スタートを誤り二壘打として早くも川島生還し一點を先取す、片山一匍、木部投匍して退く。
(二)山本中飛、別所三振、丸山二匍して退きしも皆よい當りをする。

第二回。(下)藤城二匍、福間中飛。唐木一匍して大橋の腕やうやうきまる。
(二)一回いゝ當りをした我軍は、大橋一二間を抜きて出で田中火の出る様な直球を右翼に呈して死しも池田中越二壘打して大橋生還す、されど池田三壘を望みしも好投に刺さる、前田投飛。

第三回。(下)迫畑三振、武久三匍、川島失に出でしも太田三匍。
(二)牧野三飛、志摩三振後山本左翼を深く抜いて三壘に入る、續く別所三壘上を抜いて山本を還す、丸山遊匍一點を勝ち越す。

第四回。(下)片山一匍、木部三遊間を抜いて出でしも藤城二匍、福間三振。
(二)大橋中飛、田中三振、池田投匍失に生きしも前田一匍。

第五回。(下)唐木、迫畑、四球にて好機至りしもダブルスチール成らず唐木三壘に刺され迫畑辛くも二進、武久三匍、川島三振して危機我軍を去る。
(二)牧野左越二壘打、志摩四球を得て續く。好機至る、山本一壘右を抜いて滿壘となる。別所の投匍牧野を封殺せしも丸山一二間を抜き志摩生還。山本もつゞきしも本壘に刺さる。大橋遊匍に退きしも更に一點を入る。

第六回。(下)太田中飛、片山遊撃右を抜き、木部三匍失、藤城四球に滿壘となりしも福間の三直は片山とダブられあたら好機を逸す。
(二)田中二匍、池田再び中越二壘打を放って出づ、前田の遊匍は池田を三壘に刺しゝも牧野の右翼右の二壘打に前田生還。志摩四球に續きしも山本三振。

第七回。(下)唐木投飛。迫畑遊越安打せしも武久遊匍、川島一匍。
(二)別所遊匍後丸山三匍失に出で大橋の中越二壘打に三進、田中四球に出づ。池田左犠飛に丸山生還、更に一點を加ふ。大橋三進せんとせしが野手に謀られて二三間に挟殺。

第八回。(下)太田三匍、片山遊匍失に生きしも木部三振、藤城一邪飛。
(二)前田四球、牧野一二間を破りしも志摩三振、山本三匍、別所三振。

第九回。(下)福間遊飛、唐木に代り三戸左前安打せしも離壘して刺され迫畑投匍して萬事休す。
かくて平安を一蹴し下關を撃破した武陽軍は北陸に敵なき敦賀商業と優勝戰をなすことになった。

▽准決勝
 下關商業 100 000 000=1
 神戸二中 011 011 10A=5


 〔下 關〕 打得安四三犠盗失
       數點打球振打壘策
 8 武 久 40100000
 61 川 島 31011010
 16 太 田 40100000
 4 片 山 40100010
 2 木 部 40001010
 5 藤 城 30010000
 9 福 間 40001000
 7 唐 木 20010000
 PH 三 戸 10100000
 3 迫 畑 30111021
   合 計 321544051

 〔二 中〕 打得安四三犠盗失
       數點打球振打壘策
 8 山 本 51201000
 9 別 所 50102000
 5 丸 山 41200002
 1 大 橋 41200000
 3 田 中 30011000
 6 池 田 30200101
 2 前 田 31010000
 4 牧 野 40300000
 7 志 摩 21022000
   合 計 3351246103
(備考)九回三戸、唐木に代って打つ。

〈朝日新聞〉
[阪神博主催選抜中等學校野球大會]

昭和3年11月3日(土)甲子園 午前9時10分=11時1分 球審・森口、壘審・栗田
▽准優勝試合
 下關商業 100 000 000=1
 神戸二中 011 011 10A=5


 〔下關商業〕      〔神戸二中〕
 中 武 久 31打 數33 中 山 本
 遊 川 島 5安 打9 右 別 所
 投 太 田 0犠 打1 三 丸 山
 二 片 山 4三 振6 投 大 橋
 捕 木 部 4四死球4 一 田 中
 三 藤 城 3盗 壘0 遊 池 田
 右 福 間 3失 策4 捕 前 田
 左 唐 木 1二壘打5 三 牧 野
 一 迫 畑 0三壘打1 左 志 摩

〔第一回〕下商、武久中前安打、川島四球に出て武久離壘して投手に計られてアウト、太田左翼越二壘打し川島生還、最初の一點をあげ木部一匍。
△二中、山本中飛、別所三振、丸山二匍。

〔第二回〕下商、藤城二匍、福間中飛、唐木一匍。
△二中、大橋二、一壘間を抜いて出で田中右直後池田の中越二壘打で大橋生還、同點となる。

〔第三回〕下商、一死後武久三匍、川島三失に生き二盗なったが、太田の三匍にやむ。
△二中、牧野三飛、志摩三振の後川本左翼を深く抜く三壘打に出でつづく別所の三壘右を抜く安打に生還。丸山遊匍。

〔第四回〕下商、片山一匍、木部三遊間を抜いて出たが藤城二匍、福間三振。
△二中、大橋中飛、田中三振、池田投手の失に生きたが前田一匍。

〔第五回〕下商、唐木、迫畑ともに四球に出て好望と見えたが後續なし。
△二中、牧野左越二壘打し、志摩四球につづき、山本の一壘右安打に滿壘、別所の投匍で牧野本壘に封殺されたがなほ滿壘、丸山一、二壘間を抜き志摩生還、山本は本壘を陥れんとして9−1の好投に刺される。大橋遊匍。

〔第六回〕下商、太田中飛、片山遊撃右を抜き、木部三失に藤城四球にともに出たが、福間の三直に片山重殺され無為。
△二中、一死後池田二度目の中越二壘打を放ち、前田の遊匍は池田を三壘に刺したが牧野左翼右の二壘打に前田生還、志摩四球に續いたが山本三振。

〔第七回〕下商、一死後迫畑遊越安打したが武久遊匍、川島一匍。
△二中、別所遊匍の後ち丸山三失に出で大橋の左越二壘打に三進、田中四球に出で池田の左犠飛球に丸山生還、一點を加へ大勢を決す。

〔第八回〕下商、一死後片山遊失に生き二盗成ったが木部、藤城凡退。
△二中、前田四球に出で、牧野一、二壘間を抜き好望なりしも後援空し。

〔第九回〕下商、最後の攻撃に移り福間遊匍、三戸左前安打に出たが離壘して刺され迫畑投匍して物にならず。結局五A對一で二中勝つ。

《武 陽》
☆神戸二中優勝す☆
 昭和3年11月4日(日)甲子園
阪神博主催の全國選抜中等學校選抜野球大會の優勝試合は神戸二中と敦賀商業の間に四日午前十時十五分甲子園球場で擧行。神戸二中が堂々と優勝した。

▽優勝戰
 神戸二中 020 010 110=5
 敦賀商業 002 000 000=2


 〔二 中〕 打得安四三犠盗失
       數點打球振打壘策
 8 山 本 51101010
 9 別 所 50102000
 5 丸 山 40201000
 1 大 橋 42200010
 3 田 中 40101000
 6 池 田 41100020
 2 前 田 30100100
 4 牧 野 41100000
 7 志 摩 30102100
   合 計 3651107240

 〔敦 賀〕 打得安四三犠盗失
       數點打球振打壘策
 4 小 林 31011001
 7 西 川 30100100
 5 橋 本 41100000
 1 佐 田 40001000
 3 猪 瀬 40002000
 6 洲 崎 20020002
 9 大 井 40102000
 2 栗 田 40100001
 8 船 田 20011000
   合 計 302447104

〈朝日新聞〉
☆神戸二中優勝す☆
 5−2 敦賀商業敗る
[阪神博主催全國中等學校野球大會]

 昭和3年11月3日(日)午前10時15分=午後零時35分 球審・菅井、壘審・島津
▽優勝戰
 神戸二中 020 010 110=5
 敦賀商業 002 000 000=2


 〔神戸二中〕      〔敦賀商業〕
 中 山 本 36打 數30 二 小 林
 右 別 所 9安 打4 左 西 川
 三 丸 山 3犠 打1 三 橋 本
 投 大 橋 7三 振9 投 佐 田
 一 田 中 0四死球4 一 猪 瀬
 遊 池 田 2盗 壘0 遊 洲 崎
 捕 前 田 2失 策8 右 大 井
 二 牧 野       捕 栗 田
 左 志 摩       中 船 田

(第一回)神戸二=二死後丸山右前安打に出たが二盗に倒る。
敦賀=小林右飛後西川、橋本ともに二、一間を抜く安打に出で好機と見えたが佐田の遊匍は橋本を、猪瀬の二匍は佐田を各封殆して已む。

(第二回)神戸二=大橋中右間安打に出で田中投手バントの時野手大橋を二壘に封殺せんとして好投したが洲崎失して二者を生かし次打者池田左前に安打して大橋二壘から一氣に還り此の間田中も三壘を奪はんとして7−1−5の送球に刺され池田二進、前田の遊匍低投に池田還って二點を先取し前田投手の牽制球に倒れたが牧野二匍に生き志摩中前安打に再び機會に恵まれたが山本遊匍して已む。
敦賀=洲崎右前に好打したが野手の美技に阻まれ大井邪飛に退いた後ち栗田投手をワンバウンドで抜いて出たが點にならず。

(第三回)神戸二=二死後大橋遊匍横投に生き、田中三壘上を抜く安打に續いて敵を危地に追詰めたが池田の中飛にやむ。
敦賀=打者は一番からである。小林四球に出で西川の犠打に二進、橋本の遊匍低投に小林生還、この間橋本また二進し、佐田の三匍高投に橋本も還り二點を酬い茲に同點となったが佐田三壘に暴進して犬死し猪瀬中飛して退く。

(第四回)神戸二=三者凡退。
敦賀=洲崎四球に出で大井三遊間安打に續き好機を作りながら洲崎は投手の牽制に退き栗田三振、船田四球に出たが小林も三振、遂に恵まれた好機を脱し去る。

(第五回)神戸二=第一打者からである。山本劈頭二壘の左を抜いて出で二盗に成功し別所三振したが丸山三壘右を襲ふ安打を放ち、山本一氣に本壘を衝けば捕手左翼よりの送球を後逸して山本を還し貴重な一點を獻ず。丸山は此の間一擧三進し大橋遊匍の時本壘を衝いて遊撃手の好投に刺され大橋また捕手よりの送球に一壘に重殺を喫す。
敦賀無為。

(第六回)雙方振はず。
(第七回)神戸二=牧野第一球をセーフティーバントして出で志摩に送られ山本中飛後別所の遊撃野手失に牧野生還、二點リードし樂々と試合を續ける。
敦賀=三者凡打。

(第八回)神戸二=大橋の遊匍内野安打となり投手の牽制悪投に二進、田中三振後、池田の遊匍低投に大橋三進、池田二盗を果たし前田2−2の後中堅深く放った大飛球は犠打となって大橋還り更に一點を加ふ。

(第九回)兩者よく攻めよく守って得點せしめず結局五對二で神戸二中勝つ。(所要時間二時間二十分)

17陽会(昭和4年卒)
 池田 芳蔵    二塁
 大橋 政一    投手
 濱根 康夫    
 山本  隆    中堅
 武田 義郎    
 十河  博    

 
☆池田芳蔵氏 明治44年5月8日生まれ

 

昭和4年

神戸二中卒、17陽会 三高から東大へ

昭和48  10

藍綬褒章

昭和11

東大経済学部経済学科卒

昭和49年  4

ベルギー王冠勲章

昭和11

三井物産入社

昭和56年  4

逓信記念日郵政大臣表彰

昭和22

極東食糧

昭和56 12

Knight Commander of the Most Excellent Order  of the British Empire

昭和24

穀物油脂部長

 

昭和28

第一通商穀物油脂部次長

昭和29  9

ニューヨーク支店長

昭和57年  5

オーストリア共和国功労大金章

昭和30  7

第一物産ニューヨーク支店次長

 

昭和34年  2

三井物産と改称

昭和57年 11

勲一等

昭和36年  2

台北支店長

勲一等瑞褒章

 

昭和38年  3

ロンドン支店長

塩業審議会委員

 

昭和40

取締役ロンドン支店長

日米協会理事

 

昭和42 11

業務部長

日英協会

 

昭和43 11

常務取締役

経済団体連合会推薦会員

昭和46年  5

副社長

経済同友会顧問

 

昭和48年  5

社長

日本工業クラブ

 

昭和54   6

会長

ボーイスカウト日本連盟評議員

昭和57  6

相談役

 

 

昭和63   7

NHK会長

 

 

平成元年   4

退任

 

 

 神戸二中では遊撃手、三高でも内野手として活躍。さらに東大に進んでからは三塁を守った。
 昭和9年の【東京大学聯盟】は春1試合、秋2試合制を採っていた。
 池田氏は9年全試合(
15)に出場している。最初4月22日の立教戦は三塁・六番。その後守備の三塁は変わりないが打順は一、二、六番を打っている。11試合が一番、3試合六番、1試合二番とトップバッタータイプだった。 

 夫人から平成121014日次のようなお便りを頂きました。

 『此度は武陽野球倶楽部部史ご製作のご案内をいただき有難う存じました。折角のご申出ながら生憎、この處体調をくずして入院中でございますのでご協力申上げられず残念に存じます。何卒よろしく御了解の上お世話様になっております皆様へよろしう願上げます。変わりやすいこの季節をご大切に遊ばしますように。右要用のみご返事迄申上げます。 かしこ』
 

☆大橋政一氏 明治43年7月25日生まれ。
 平成
11年4月25日午後2時28分、急性呼吸不全のため神戸市西区の病院で死去。
 
88
歳。
 昭和4年、神戸二中卒、
17陽会。横濱高商卒。 初代野球部OB会長。
 横濱高商卒業後、会社経営の傍ら社会人チーム〈全神戸〉の主力選手として活躍、 
 昭和7年の第6回都市対抗野球大会で優勝した。

  =昭和45年9月1日発行=(兵庫県高校野球五十年史より)
 明治の末期から大正の時代にかけて神戸の球界を二分するとまでいわれた一中、二中の定期戦は母校の名誉かけて精根をかたむけ「打倒一中」はたまた「怨敵二中」と若い血潮を燃やし、お互いにしのぎを削って情熱をたぎらせてきた。

 私がレフトを守っていた3年生の春(大正15年)当時、神戸新聞社が京神大会と銘打って京都府の代表と兵庫県の勝者との府県対抗の大会が催されていた県下予選の2回戦に一中とぶつかりました。
 大正7年に応援団のもつれから定期戦は中止となり、夏の大会や秋の扇港大会(又新日報主催)に当たる程度で大正
10年以降、偶然、5年間顔を合わしていなかったのです。

 しかし、戦前の予想を裏切り9対6で、劣勢を伝えられた一中の軍門に降り、暮色の明石グラウンドで涙をのむ結果となり、應援団に励まされ、なだめられて、復しゅうを誓い合ったのでありました。
 大正天皇が崩御、年号は昭和と改まり、新チームは橋爪投手と三塁手沢野の2名を校門から送って、あとわたくしが投手の重責をにない、マウンドを死守した。

 ついに巡りきた復讐の日だ!櫻咲き乱れる4月7日同じ京神大会第1回戦に恨みは深し明石グラウンドに再び相見えることになった。幸いなるかな!わが陣容は三塁に名手丸山を加え、藤池、森山、亀山、小西など精鋭の参加に一段と力量は向上し、怨敵一中を血祭りにあげんものと、復讐の意氣、天を突き、血気にはやる応援団に囲まれて勇躍グラウンドに乗り込んだ。

 一方、一中もさるもの、円熟味増した宮崎投手は、ますますその快腕をほしいままにし、新チーム結成以来、無敗を堅持し、だれがみても六分四分で今度は一中が有利と評されていた。
 二中は先輩島津保雄氏を監督に、宮崎投手の投球内容をつぶさに研究して真正面攻撃は避け、守備の弱点を突いて、その一角をとりくずして、動揺させ、一気に攻め込む集中攻撃より手はなしと初回から猛然と切り込んだ。

 1番主将眞鍋、二塁打に出て、四球、暴投、大橋の安打と立て続けに攻め込んで一挙4点を挙げるや、一中もすかさず2回表、同じく4点を取り、試合はいやが上にも白熱して、まさに竜虎の激突となる。

 三回、四回、両軍凡退を重ねるも五回、二中また火をふいた。田中の四球を足場に二死後、つるべ打ちに打ちまくって、堂々4点を挙げて優位に立ち、あと七回にも大橋の三塁打でだめ押しとも思われる1点を入れ、計9点。一中も追撃に移り、七回藤田の安打を深井の左翼二塁打で生還し1点、八回畑中中堅安打、松尾三振後石黒、八木四死球に続き、藤田の左翼安打に畑中、石黒得点し2点を挙げ、7点を追い上げたが、九回、谷尻の二塁打も後続二者三振し、万事休す。

 とうとう9対7の大接戦で凱歌を奏することができた。ここに復讐なる!若い限りない力を使い果した。たとえようのない激しい戦いであった。過去屈辱の一年の努力はついに実を結んだ。

 勝利の感慨にひたりつつ、昨年敗戦の悲涙にむせんだお濠端にたたずめば、あでやかに咲きにおう満開の桜花が一せいに拍手を送っているように、白い花びらが微風になびいて、ハラハラと頭上に舞い落ち明石城も祝福しているかのようであった。勝利の栄冠を心から味わった若き日の思い出は今に至っても、なお、数年前のことのように生き生きとよみがえっています。

 余談ながら一中の宮崎君と昭和4年卒業後ともに横濱高商に進み、在学中はもちろん卒業後も、おおいに野球をエンジョイし、インターハイの全国優勝。都市対抗で「オール神戸」の優勝と、ながく友情の火を消えることなく、今にあたたかく結ばれています。

昭和4012月発行の《武陽通信26号》に掲載された〔野球部50年史〕の座談会(5)で野球部の思い出を次のように話している。

 『私の思い出といいますと、何といっても、野球のお蔭で級長にしていただいたことを忘れることができません。また四年生の時先生方と試合をして、江川先生の鼻柱にシュートボールを当ててしまい、眼鏡は飛ぶ、鼻の骨をまげるといったような始末で、先生がとうとう二週間も休まれたことをおぼえています。

 私の入部は大正
15年でしたが、春の京神大会には三年でレフトをやりました。(※大正15年5月2日、板宿大手球場、対伊丹中学戦。八番で左翼、3打数1安打、二塁打1)この時一中に敗けましてね。(※5月16日、6−9で負け)明石のお濠のそばで応援団にかこまれてさんざんしぼられたのはつらいことでした。

 四年生になってからピッチャーをやるようになったのですが、前年と同じ場所で7−5(大橋氏の記憶違いで9−7)で一中を破り、その翌日がちょうど級長選挙だったのですが、私に票が集ってとうとう野球のお蔭で級長を経験した次第です。
 これは新聞にまで載せられましてね。それから五年生の時、夏の予選では優勝戦で甲陽中学に4−3で敗けました。秋に御大典記念の全国選抜大会が行われましてその時は優勝してどうやら最後を飾ることができました』