昭和7年(20陽会)1932年

NO7

〈朝日新聞〉
【第18回全國野球選手権大會兵庫豫選】

 昭和7年7月28日(木)甲子園 開始午後0時15分=閉戰午後1時37分
 球審・生駒、壘審・泉谷、杉村
▽1回戰
 県立農業 010 00=1
 神戸二中 634 0X=13

 (5回コールドゲーム)

〔經過〕近来になく充実せる二中軍の猛襲は、試合の最初から遺憾なく發揮せられて、一回五本の安打と三箇の四球に一擧六點を収めたのをきっかけとして二回、二走者のある時野田の三壘打に三點、四回尚も攻撃の手をゆるめず三安打に四點計十三點を奪ったに反し縣立農業は更に振はず二回押出しの一點を酬いたるのみで結局十三對A一にて五回コールドゲーム。

 〔農 業〕      〔二 中〕
 三 山 本 16打數23 遊 成 川
 二 伊 藤 1安打10 三 池 田
 捕 釜 谷 0犠打0 捕 佐久間
 遊 河 越 7三振3 投中 田中
 一 興 津 5四球8 中投 野田
 投 山 脇 0盗壘4 一 名 倉
 左 西 村 4残壘6 右 田 中
 右 西 垣 1失策0 左 松 村
 中 久 本      二 梶 井

 △三壘打=野田

《武 陽》
◎對灘中學戰

 昭和7年7月31日(日)甲子園
▽2回戰
 神戸二中 206 02=10
 灘 中學 000 00=0

 (5回コールドゲーム)

 大會第六日、三十一日午後の甲子園、怪しげな空模様とはいへ、甲子園へ甲子園へ………すべてが野球行進曲だ、野球への興奮だ、大會旗はためく甲子園球場、大觀衆を迎へ沸き起る地上の歡呼、大鐡傘の唱和颶風のやうな感激の嵐、あゝ神聖スポーツ日本の象徴だ、精魂のすべてを盡して、相搏つ我等の若き選ばれたる球兒の意氣は高揚につぐ昂揚、美技、快打の連出は滿場の觀衆を息つく間もなく、三眛境に誘ひ入れ、歡呼と拍手は勝者を讃へ、敗者を厚く犒って餘すところない、

 こゝに選手も觀衆も渾然一つに融けて壮美の頂角をゆく!清神なる若き血潮は躍動し、脈動しながらスポーツの最高律を掲示して聖なる試合はつゞけられてゆく、力強くも輝き一線を若き時代に畫しつゝかくて、午後三時三十分松村(球)金政、町田(壘)二氏審判の下に二中先攻で開始。

第一回(二中二)成川遊匍失に出て二盗後池田の遊越テキサスに三進、池田も二盗、野田投匍後田中柳の左中間安打で二者生還、田中も二盗なり、名倉四球に續き、田中敏の一匍に走者進んだが松村遊飛。
(灘中零)大野三振、高谷一飛二死後、田村の一二壘間安打梶井足ではじきき、之をとった井貝二壘に悪投する間に二進し投手暴投に三壘に到ったが奥田右飛。

第二回(二中零)井貝三振、梶井三飛、成川中飛。
(灘中零)鈴江一飛、野村三振、齋川二匍。

第三回(二中六)池田遊匍失に一舉二進し、野田二飛後田中柳の遊匍を野手池田三壘に刺さんとして高投し、池田生還、田中も二壘、續く名倉の二匍失に田中柳も生還、尚田中敏四球、松村三匍失で滿壘となり、井貝の三遊間の安打で、名倉還り、梶井のショート右の安打で田中敏生還、成川二飛後池田、野田の二者四球で松村、井貝生還、合計六點を得、田中柳は右飛。
(灘中零)大林二匍、高橋三振、大野遊飛。

第四回(二中零)名倉右前安打に出て、田中敏の一匍、松村の三匍に進んだが、井貝遊匍。
(灘中零)高谷中飛、田村三振後奥田一越安打に出たが、鈴江の遊ゴロに封殺。

第五回(二中二)梶井四球二盗なり、成川の三前内野安打に進み、成川二盗後池田の投手足下を抜くヒットに二者生還、野田中飛、田中柳の遊匍で池田封殺、名倉一飛。
(灘中零)野村遊飛、齋川三振二死後大林遊匍失、高橋中前安打につゞけたが大野の遊匍で、高橋二壘に殺され、十−○、五回コールドゲームで二回戰を得る。

〔後記〕野球快味の陶酔境に感激、奮熱の渦を巻きつゝ今日はやくも大會第六日、はるか黒潮の彼方ロスアンゼルスはスポーツ日本の優勝を期して、そよぐ緑の風に堂々日の丸ははためき、輝く新興日本の凱歌をあげつゝオリッピック大會の幕をあくればこゝ甲南の海近き甲子園大スタヂアムでは、球界の意氣いよいよ高く、大會氣分いよいよ高潮して、歡呼の鯨波!渾身の力、眞摯がもたらす妙技のかぎりをつくして、縣下野球ファンの耳目をさらってゆく、相手は新進灘中此の春十一−○で大勝してゐるのだ。

 今日は先日の試合に傷ついた佐久間主将ベンチに残りて、松村が捕手となり、野田とバッテリーを組み安打僅か三本、與へし四球無しと云ふ好成績、然し田中敏、松村等にあたりが出ず、バッティングに今一息と云ふ感あり。かくて再度のコールドゲームをなし終る、此處迄は幸運であったが運命のいたづらは極弱より最強へ三回戰の相手は人も知る大剛明石中學、戰士一同は玉碎を思ふ。

〈神戸新聞〉
☆二中大勝す 10−0 對灘中戰☆

 昭和7年7月31日(日)甲子園 開始午後3時48分=閉戰4時55分
 球審・杉村、壘審・金政、町田
▽2回戰
 神戸二中 206 02=10
 灘 中學 000 00=0

 (5回コールドゲーム)

 〔二 中〕 打得安犠盗振四残刺捕失
 6 成 川 42102000220
 5 池 田 32201011000
 1 野 田 30000011000
 8 田中柳 41101001100
 3 名 倉 31100012401
 7 田中敏 21000010000
 2 松 村 31000000500
 9 井 貝 31000100100
 4 梶 井 21101011221
     計 27106051561542

 〔灘 中〕 打得安犠盗振四残刺捕失
 6 大 野 30000100122
 7 高 谷 20000000000
 2 田 村 20100101100
 8 奥 田 20100000200
 3 鈴 江 20000000000
 1 野 村 20000100010
 5 齋 川 20000100111
 4 大 林 20000001301
 9 高 橋 20100100100
     計 190300502944

 △暴投=野田 △試合時間=1時間7分

《武 陽》
◎對明石中學戰
 昭和7年8月1日(月)甲子園
 時こそ来つれ、いざ戰はん、けふしも迎へたクォーターファイナルに勇み立つ縣下の八雄が碁峠して茲に甲子園原頭に至高、至妙の球技まさに開けんとする。躍る心を抑へて沸き立つ胸を制して、落ちつかう、急ぐまいとしてもいつの間にか逸る心だ、次第にはづむ歩度だ、グラウンドへ我等の足は逸りに逸やる。

 兩雄の相向ふところ錬磨の妙諦を傾けて、あますところなく快哉の妙技を展開し、熱と方の角逐に終始し、觀衆またチャンスの波ピンチの波に乗って、萬雷の喚声をあぐ、息の詰まる刹那々々の連續に射ぬくばかりの凝視……燃ゆるばかりの瞳の大群列だ。

 たゞそこにあるものはあらゆる最大級の形容詞をけしとばして、壮絶の極み、熱と力が描出す興奮の最高峰!勝者の榮冠にわれ絶讃の歡呼を惜しまず、敗者の苦杯にわれ人と共に涙してこゝに七日、錦繍の大旆への覇業いよいよ近づき、けふも又この明澄の空の色!見よや大地に描く躍動美聞けよ迸り出る青年日本の雄叫び!

 八月一日午前十時、森口(球)鹽見、宮崎三氏審判の下に二中先攻で開始さる。打った、駛った、あゝアウト……一球ことに一動ごとにド、ド、ド……崩れる様な拍手の怒涛だ。歡呼の奔流だ、連日の熱戰は沸りきった球場の神經は他愛もなくゆれにゆれて、スタンドの一隅から拍手起ると見るや忽ち破れるやうな拍手の颶風となって大鐡傘を呑み、たぎり立つスポーツ亢進は感激の極、あゝ遂に涙となる。

第一回(二中零)成川一匍失に出たが、池田の第一球で二盗に刺さる。池田二飛、佐久間三振。
(明中五)峰本四球に出で二盗後横内も四球、楠本の遊匍に横内封殺されたが楠本二盗後山田も死球に出づ。田中投手コントロール全然亂れ、野田投手とこゝで交代す。中田の二匍失に峰本、楠本生還、深瀬ショートゴロ、成川取って二壘へ投ぐれば梶井ポロリと落として生し、此の間山田素早く生還、福島遊匍にランナー進みたる後田口の遊匍野手の投球やゝ右にそれ名倉よくとって走者にタッチしたと見えたが審判セーフを宣し、中田、深瀬生還、加藤三匍。

第二回(二中零)田中柳四球出て、野田右飛後名倉の二匍に二壘に進んだが田中敏三振。
(明中三)峰本遊飛後横内、楠本共に四球に出て、山田の右翼越ライナーは三壘打となり二者生還、中田の二直梶井三度失して山田生還、深瀬の遊匍は中田を封殺、福島三匍。

第三回(二中零)松村、梶井、成川の三者楠本の剛球にひねられて三振。
(明中一)田口四球、加藤遊匍失、峰本死球にノーダンフルベースとなったが、横内三飛後楠本の遊匍で峰本死する間に田口生還したのみで山田右直は田中敏よくとる。

第四回(二中零)池田二匍、佐久間三匍後田中柳二匍失に出たが野田右邪飛。
(明中零)中田中飛、深瀬右飛、福島三匍で簡単。

第五回(二中零)名倉一邪飛、田中敏、松村共に三振。
(明中一)田口四球、加藤の犠打は内野安打となり、峰本の犠打も内野安打となり、横内の二匍トンネルに田口生還、十A−○で大敗す。

 神戸二中 000 00=0
 明石中學 531 01=10

 (5回コールドゲーム)

〔後記〕勝敗もとより弓矢とる身の常とはいへ、こゝに時分の前迄剣戟の間に相見えし、敵手の榮名を後にして寂しく退場する。攻守の技能に修練の秘奥をつくし、戰機の動きに帷幄の頭脳を傾けて、遂に刀折れ、矢盡し武運の末とは言ひながら忍従嘗苦の十八年を重ね來て、一念其の鴻圖を忘れなかった闘士にとりては餘りに酬いらるゝの薄きに胸ふさがるゝ歎きはづらう。

 さりながら、いたづらに低回相久しきは男子の恥べきところ、殊に全力を盡しての果に何の貽すべき憾みぞ佛者の説く「忍而不悔」はかゝる場合の我等の持すべき究竟の立命であり、且つ力強き重來の笞鞭でもある。一方今日の榮譽に浸る明中には兵家の箴言「勝而不驕」の一句を聊か婆心の餞として郷土の為に活躍を期す。

 明石と争はんものゝ秘訣は得點を許さざることである。中學球界稀に見る剛球兒楠本を擁して、難攻不落の堅陣から得點をもぎ去ることは容易の業でない。攻めて至難事たる得點競争に憂き身をやつさんよりは守りを固くして先づその勝利を遮ることである。

 明石に與へた得點は優しい努力では還ってこない。此の點に我軍は注意して戰ったのであるが一回目梶井が重殺の出來るゴロを失して二點を得られ、其の上相つぐ二壘のミス、又壘審鹽見の分かりきったミスヂャッヂによって我が作戰は根底より覆され以後ほどこす術無く大敗した。

 一方攻撃に於ては一回成川無死で一壘に出ながらも二盗に刺されたが之は成功しなかったとはいへ強敵を相手として機先を制するには、よき戰法である。現に今秋の早慶第一回戰に於て、老巧井川がこゝろみて、見事成功した。二回目以後は楠本の豪球に手が出ず、僅に田中柳が二度出壘したのみで、三振七をとられた。

 要するに、敵に與へたクリーンヒット一本で、十點を取られ壊滅したのは、大黒柱田中柳の不出来、審判の誤審等あったにせよ、梶井の四つのタイムリーエラーさへ無くばかくも惨めな負を取る筈はなかったのである。

 然し滿場の觀衆は一回、鹽見の誤審の時等我軍に同情して騒然たるものがあった。あの時名倉は完全にタッチして、アウトと思込み球を放り出してベンチに歸ってくる、すると壘審は考へた後セーフを宣す、呆然たる内に二死後であったから走者は二人ホームイン。

 此の時の光景を思ひうかべると今でもくやし涙がわき起ってくる。がアンパイヤも神ではない、時には過もある。これも不運とあきらめなければならぬ。
あゝ春も二壘松村の連失によりて、敗因を起し、夏も又此處より破れを見せる、實に今年はセカンドは鬼門なるかな。