金井氏は兵庫県知事時代〔兵庫県高校野球五十年史〕に〈草創期の思い出〉のテーマーで一文を寄稿している。そのなかから神戸二中に関する箇所を抜粋してみた。
『大正の中ごろ兵庫県は野球の先進地として、関西学院や神戸一中、少し遅れて神戸商業も出てきて、野球の名門校が肩を並べていた。わたくしの母校神戸二中も強剛に数えられ、豊中で開かれた第1回の全国中等野球大会に県代表として出場したが、惜しくも1回戦で早稲田実業に敗れ、涙をのんだ記憶がよみがえってくる。
中学生のわたくしは、野球が好きだった。当時は、ようやく野球の用具が普及しはじめたころだったが、まだ捕手がプロテクターをつけるのが珍らしい時代だったし、グラブも今日のものとは形がちがっていて、手のひらで球を受けとめる……といったようなものであった。また、投打の技術も十分開発されていなかったし、作戦などもラフなもので気合いでぶつかっていく……というやりかたで戦ったものだ。
和歌山中学がアメリカからハンターというコーチを迎えて指導を受けたところ、たちまち2年連続して全国優勝をとげた。わたくしたちは第1回全国大会出場の伝統をつごうと大いにがんばったが、激戦地の県大会で勝ち抜くことはなかなかむつかしく、全国的にもレベルが高くなりつつあったので、兵庫県代表の制覇も至難なことだった。
まだ春のセンバツがなかったので、当時は夏の代表校を決める県予選大会と、秋の扇港野球大会というのがあって、神戸球界の二大年中行事として市民を沸かせたものだ。県予選は東遊園地で開かれていたが、熱戦に興奮してグラウンドへせり出してくる応援団を押し返すのに係員が大わらわになっていた風景が思い出される。そういった野趣おういつといった雰囲気もなつかしい。
中等学校も少なく、参加校も数えるほどしかなかった草分け時代を過ごしたわたくしにとっては、今日の高校野球の隆盛に隔世の感を抱くとともに、ファイト一本槍だった敢闘精神がいつまでも消え去ることなく、若い諸君に根づいてほしいと願っている』 |