最後の県知事−島田叡(あきら)氏の死は、戦火の中での入水自殺、短銃自殺、あるいは軍とともに玉砕−などといわれ真相は不明とされていたが、テレビ放送がきっかけで『島田知事の最期を目撃した』という元軍人が名乗り出た。東京都三鷹市上運雀
5−29−14鮮魚商、山本初雄さん(51)でもと「球一八八○部隊井村隊山川小隊(独立機関銃隊)の連絡係」の伍長勤務兵長。沖縄戦で右頭を負傷、捕虜生活ののち復員した人。
西日本新聞、二十七日夕刊の伝えるところによると、山本さんは八月十五日夜、フジテレビが「ドキュメンタリー劇場“島田沖縄県知事の死”」を紹介した記事の中に「島田知事は、どうくつ内で一人で短銃自殺したともまた入水自殺したとも伝えられ、その最期を見届けた者はいない」とあったのを読み『そんなバカな…、私は摩文仁近くのどうくつ内で知事の最期を目撃した。こんな大事なことは、とうに分かっているとばかり思っていた』と語っている。
山本さんによる当時の模様は次の通り。
『私ら独立機関銃隊の一部は敗走し、摩文仁の海岸から具志頭の浜辺に出た。日没時、食糧さがしに海岸沿いを糸満方向へ約二百メートル行った。海のすぐ近くにごう(壕)があり地方(民間)人が三人いて“知事さんがはいっておられますよ”という。奥行き六メートルくらいの横穴で、頭を奥にし、からだの左側を下にしておられた。“知事さんだそうですね”とたずねると“私は島田知事です”と胸から名刺を出した。“負傷しているんですか”ときくと、“足をやられました”といわれた。知事さんが“兵隊ん、そこに黒砂糖がありますからお持ちなさい”と言った。何も食べ物がないときですよ。えらいと思います。二つもらって“元気にいて下さい”といって自分のごうに戻ったのを忘れません。
その翌日、海岸に流れついた袋の中にはいっていたメリケン粉をハンゴウで炊いてスイトンをつくり、島田知事に持って行った。
ところが、先日と同じ地方人が“知事さんはなくなりましたよ”という。ごうにはいるとヒザのそばに短銃があった。右手から落ちたような感じで“ああ自決したんだなあ”と思った。合掌して知事さんのごうを出ました。
知事は白の半そでシャツ、ズボンはしもふりかと思ったが軍隊ズボンではなかった。髪、ヒゲは大分のびていた』
山本さんは、その後、昭和二十一年初めに投降、その時米軍の前で沖縄県庁の役人らしい男に島田知事の名刺などをいれた雑のうを没収された。仲座にある収容所に一年いて二十二年復員した。
『証拠になるものを没収されたけど間違いない。現地をみれば知事最期のごうもわかる』と山本さんは語っている。(昭和46年9月1日、沖縄タイムス) |