8陽会   島津保雄氏       大正9年神戸二中卒
大正14年 関西学院高商部卒
                     元関西六大学(関西学生連盟)野球審判部長

平成元年(1989)8月21日 肺癌のため死去  享年88歳
                                                     謹んでご冥福をお祈りします。

神戸二中、関学高商部を通じて名遊撃手として活躍した。
大正4年神戸二中が『第1回全国野球大会』に出場した時には1年生。レギュラーとして出場するようになったのは4年生の大正7年。その年の兵庫予選で7番・遊撃手。翌8年の県予選は6番と5番を打ち遊撃を守っている。関学高商部ではいきなり1年から7番・遊撃手として出場、華麗な守備でスタンドを沸かせた。

高校野球の春夏甲子園大会で審判を務めるなど学生野球の審判員育成に尽力した。

◇神戸二中(県兵庫高)横綱(關學中)を逆転し優勝知る人少ない全国大會秘話◇

 

外野は縄を張っただけ。内野の観客席は板張りの階段。野っ原のような大阪・豐中球場で大正四年八月、全国から十校が参加して、第一回全国中等學校野球大會が開かれた。兵庫代表神戸二中は第一戰で早稻田實業と対戰した。試合中、神戸二中の選手たちはもうひとつの“敵”に悩まされていた。

当時、一年生で控えとしてベンチ入りしていた島津保雄さん(87)は打ち明ける。「みんな守りを終えてベンチへ戻るたびに裏の便所へ駆け込んだんですよ。ものすごい下痢でね。前日宿で食べた魚があたったらしい。下半身には全く力が入らんかった」。結局、安打はわずか二本。2−0で負けた。

当時の選手は既に亡く、この秘話はいまでは島津さん以外知る人はいない。

島津さんの話は続く。「もっと忘れられない試合はその時の兵庫大會の決勝でね。相手は關學中。關學中といえば当時、東京の大學チームと互角にわたりあう横綱。勝てるとは思っていなかった」

◇幸運のサヨナラ◇

 

予想通り九回表まで2−0とリードされた。その裏、二壘打などで同点に。なお一死二壘で遊ゴロが一壘へ送られ、一壘手がアウトカウントを間違えたのか、拝み捕りして動かないのを見て、二壘走者が一気に生還した。むしろ旗を振り、太鼓を打ちならす二中応援団。「いやぁ、大変な騒ぎでしたよ」。島津さんの目が輝き、言葉に熱がこもる。

島津さんは關學、社會人と野球を続け、昭和三十年から二十七年間、八十一歳まで關西六大學野球連盟の審判委員長を務めた。今では耳も遠く、のどを手術したため、声も聞きとりにくい。「でもね、感激の試合というのはあの試合の後にも先にもなかったよ」
島津さんは二年前(昭和61年)から、大阪府と奈良県の境に連なる金剛山地のふもと、大阪・河南町の府立老人ホーム「河南荘」で、野球一筋だった人生の思い出に浸りながら、静かな余生を送っている。

◇一瞬のひらめき◇

 

その河南荘に二年前、野球部OB會「武陽野球倶楽部」の名誉會長、大橋政一さん(77)=神戸市垂水区西舞子4丁目=が島津さんをたずねた際、現役選手に伝えてほしいと島津さんがいった言葉がある。
「野球は頭だ。一瞬のひらめきが勝敗を左右するのだ」

大橋さんは第十四回兵庫大會(昭和三年)の準優勝投手。決勝では甲陽中と延長十回を戰って敗れた。その時の遊撃手が三井物産相談役でこのほどNHKの次期會長に内定した池田芳蔵さん(77)「大橋さんは名投手でね。準優勝できたのも彼の力に負うところが大きいよ。負けた時は悔し涙があふれてね」と振り返る。

◇また野球ができる◇

 

大橋さんは戰前は横浜高商や社會人野球で鳴らし、戰後は日本高野連の評議員や兵庫県高野連の顧問を務めた。戰時中は、神戸にあった県立医學専門學校で教官をしていた。終戰の玉音放送を聞いた時、真っ先に「これでまた野球ができると」思った。終戰直後、神戸駅前に海産物の店を開き、そこを社會人「全神戸野球団」の事務所とした。復員してきた野球選手に呼びかけてチーム作りに奔走。昭和二十年十一月十八日、西宮球場で、京都、大阪、神戸の都市対抗リーグ戰の開催にこぎつけた。これが戰後、關西初の公式野球試合だった。

その活動ぶりを知った日本高野連の故佐伯達夫・前理事長らから協力を要請され、二十一年の戰後初の大會では、全国から集まった選手の宿舎や道具、食事の世話に走り回った。

神戸二中は戰前、兵庫大會で優勝一回、準優勝二回、四強進出三回。戰後は春の選抜大會に四回出場しているものの、夏の大會では、二十三年の第三十回兵庫大會で準優勝したのが最高で、その後は四強入りが一回だけといまひとつ。(以下略)

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