「野球と私」  43陽会 森滝義己氏

私が大きな夢を持つようになったのは、中学の野球部に入ってからである。

地元という事もあるが、甲子園球場に足を運ぶようになって、自分も高校生になったら甲子園でなげてみたいと思うようになり、高校に進学したら野球部に入り、甲子園に出ることしか頭になく、これが最初の夢である。

入った高校は進学校で野球が弱く夢も少しずつ消えかけていた。しかし、野球が好きで無我夢中で練習をした結果、期せずして兵庫大会に優勝し全国大会に出場出来た時の感激は、終生忘れる事はない出来事である。

また、全国大会に出場したチームで、自宅から甲子園に通ったのは我々だけだろうと思う。

甲子園出場の夢をはたし、今度は、神宮のマウンドを夢みて立教大学に入る。

野球部員の多さに驚く。100名ぐらいいてグラウンド内におればよい方である。スパルタで有名な学校なので1年生の投手だけで38名入ったが、2ヶ月ぐらいで8名ぐらいになってしまった。練習がきついのと、レギュラーになれるかどうか自分で早く判断して退部していく人が多い。

巨人軍の長島さん、杉浦さんも練習その他でも厳しいので家に帰ってしまった事がある。当時の監督さんは二人の素質を見抜いてマネージャーに合宿に連れ戻すように指示し、二人は練習し、後にプロ野球のスターになる。

私も、2年間合宿所でお世話になるが、長島さんは娯楽室でテレビを見ていてもバットをたえず握っており、皆が寝る頃に庭に出てバットスイングを人の倍以上していたのは印象に残っている。

私は、2年生の春からベンチに入り投げさせて頂き、この年は二連覇する。私が3年生の春にはレギュラーが一人しか残っておらず、新聞では東大と最下位争いと書かれた。私も東大にだけは勝つだろうと思っていたが、野球というか勝負事は本当にわからないものである。春期リーグで10戦10勝の完全優勝をしてしまった。最下位争いのチームがである。

我々の当時のチームメイトは少し変わっていた。1年先輩がノンプロチームに入った。そのチームの監督さんは巨人軍の完全試合をした藤本さんである。試合をして負けた帰りのバスの中で先輩は歌を唄った。藤本さんに負けたのに歌など唄うとは何事だと叱られたそうだ。先輩は、「私の学校では勝っても負けても皆で帰りのバスの中で唄います」と答えたら藤本さんは何も言わなかったそうです。我々の時は本当に帰りのバスの中で唄う事によってチームがまとまり明日頑張ろうと言う気持ちになるのです。

2年生の春から4年生まで6シーズンで5回優勝することが出来たのも厳しい練習とバスの中の歌ではないかと思っております。

昭和35年立教大学を卒業し国鉄スワローズに入団する。キャンプを指宿という所で1ヶ月やるのですが、飲屋もなく喫茶店もなく、毎日夕食後、魚釣りか麻雀である。女性を見るのは賄いの人だけである。

キャンプが終り東京に戻った時ほとんどの女性が美人に見えたものである。

シーズンに入って毎日学生の時のように大声でチームメイトを励ましているとあるベテランの人が森滝よと言ってベンチ裏に呼ばれそんな大声を出して、130試合もつのかと注意された。はじめはよく理解出来なかったのですが、一人一人が社長でありゲームに出た時ベストの状態でやれるように、もう少し考えろと注意してもらったと今でも思っている。そのベテランはゲームに負けてもその日2〜3本安打を打つと鼻歌である。

私は、スワローズに7年間お世話になりましたが監督が5人も代わり、いかに当時弱かったかという事です。

プロ野球では優勝できなかったのは残念ですが、本当に野球をしていて良かったと思っております。

現在、私は、野球界に少しでもお役に立つよう体力の続く限り青少年育成の為に野球を指導して行きたいと思っております。

私の球歴

全国大会甲子園出場  県立兵庫高校(旧神戸二中)

東京六大学リーグ戦  立教大学   優勝5回

全国大学選手権大会  優勝二回

アジア大会      日本代表   優勝

プロ野球       国鉄スワローズ入団
           完全試合
           オールスター戦出場 1回

  写真 近況             紙面上部掲載写真 1993.11撮影

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