56陽会   河野正司氏

私たち昭和41年入学組は、選手5人マネージャー2人の計7人でした。

選手のうち投手の斉藤君が垂水中学、外野の山本君が高取台中学、そして私が鷹取中学と5人のうち3人が第3校区からの越境入学でした。(あと遊撃の金城君は刈藻中学、三塁の石井君は山田中学、マネージャーの奥野君は湊中学、東君は兵庫中学)なぜ越境して兵庫高校に入学しようと思ったのかと言うと中学3年の秋に高校をどこにしようか考えているとき、兵庫高校が秋の近畿大会に出場、PL学園を破り翌年春の選抜出場が濃厚だったのです。

私たち中学で野球をやり高校球児を目指している者にとって甲子園は憧れであり、越境入学がそれほどうるさく言わない時代ということもあって兵庫高校を選択したわけです。

しかし、それが甘い考えであるということが入学後分かりました。来る日も来る日も声出しにボール拾い、良くてバッティングキャッチャーで、強い上級生がいるチームには行くものではないと思いながらも練習ではなく練習の手伝いを7月までやりました。先輩チームは7月の予選で敗退、新チームが結成されましたが、残った2年生の先輩たちも甲子園を経験した素晴らしい選手だったので、まともな練習をしていない我々とは雲泥の差がありました。

その差を埋めるべく8月の強化練習では、1年生だけで練習開始前に当時ブームになっていたバッティングセンターに通い詰めました。疲れた体で振る硬式バットの重さは今も感触としてはっきり残っています。そうした努力、苦労のお陰でなんとか2年生に追い付きレギュラーになれ、一応まとまったチームを形成することが出来たことを思い出されます。

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