33陽会  鈴木(旧性・岩崎)謙一氏 【物故】

謹んでご冥福をお祈りします。

〔哀愁ただよう野球人生〕

昭和26年度の日本経済新聞社記者採用試験の作文で「人生の悲哀」をテーマにしたことを覚えている。どうしてこういうテーマを選んだのか。どうやら学生時代の野球人生と深くかかわっているようだ。

昭和15年、神戸二中に入学してただちに入部。三年生の時にレギュラーになり、3年負け続けていた神戸一中との定期戦に臨んだ。「今年こそ」と勝利を誓って早朝練習を含む猛練習を行い、その成果があって、どんでん返しの勝利を掴んだ。同級生の木村治郎君の起死回生の一打が忘れられない。その余勢をかって朝日新聞社主催の全国中等野球大会に代わる文部省学振主催第一回全国中等学校体育大会兵庫予選で準決勝まで勝ち進んだ。そこでは優勝校の滝川中学に破れたが、予想以上の成果をあげて悔いはなかった。

こういう華々しい野球部生活を送りながら何が悲哀なのか。第二次世界大戦の戦局はますます緊迫し、昭和18年、とうとう「敵性スポーツ」の烙印を押されて野球部は廃止になった。この悲しい報せを四年生の一学期、胸を患って病床にいる時に受け、本当にやるせない思いをしたものである。

昭和19年4月、病も治り、旧制姫路高校文科に入学した。文科生に徴兵延期はなく昭和20年6月に入営した。そして終戦、翌昭和21年、伝統のインターハイが復活した。

私は最高学年の三年生だったから、先輩の後ろ盾で野球部を再建し、主将で投手で四番打者と文字通り大黒柱になった。しかも関西地区大会でやはり準決勝で優勝校の浪速高校に延長戦の末、惜敗するなど心おきなく戦う事ができた。卒業後も大学生として二年間、姫高野球部の監督を務めた。だが、今度は新制大学への学制改革で姫高野球部は廃止になった。

今までも、先輩後輩に支えられ空腹をかかえて頑張った学生時代の野球人生を思い出し「よくやった」とひとり微笑むことがある。同時にそれには野球部廃止のほのかな哀愁がつきまとっている。

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