35陽会  坂本正之氏【物故】

謹んでご冥福をお祈りします。

 昭和17年4月、神戸二中に入学、憧れの野球部に入部したが、戦火は日々激しさを増し1年余りで休部状態になった。

昭和20年8月15日の終戦時は4年生だった。学徒動員のため学校工場に勤務していたが、戦争が終わって好きな野球が出来るようになると思えば居ても立ってもおれなかった。

先輩達の尽力もあって早々に野球部復活の動きは始まった。準備は順調に進んだ。

そして、筒井秀雄氏(21陽会)を監督に迎えて復部するに至った。といっても終戦時の混乱期、すべての物資が払底、當然野球用具もまともな物はなかった。それでも野球が出来る喜びは用具のことなど全く問題にしなかった。ただグラウンドで力いっぱいボールを打ち、追いかけるそれだけで楽しかった。

翌昭和21年から夏の全国大会が復活することが決まり大きな目標が出来た。と同時に県内はもとより他府県の学校との交流試合が盛んに行われるようになった。敗れはしたがとりわけ印象に残っているのが浪華商との試合。浪華商はその年全国制覇しただけに強かった。

また神戸一中との定期戦での快勝も忘れられない。

7月の県予選を控えて部員は当時の野球部長藤戸秀男先生(故人18陽会)のお宅と筋向いの田中教仁氏(37陽会)宅に分かれて合宿、高丸の神戸高商(当時)のグラウンドを借り練習した。終戦直後大変な時期にお世話になった両家のご恩には今も感謝の念でいっぱいだ。

予選の下馬評はダークホース。1回戦は甲南中をなんなくコールドで破り、二回戦の相手は強敵明石中、これも9−3で圧勝。しかし、3回戦甲陽中に4−6で苦汁を飲んだ。

私達は22年に卒業したが、戦後1年余り共に汗を流したチームメートが昭和23,24年と選抜に連続出場したことは嬉しかった。卒業後も大学、会社生活を通して野球を続け、これまで健康に過ごすことが出来たのは“武陽野球”が原点であると確信し心から感謝している。

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