21陽会   筒井秀雄氏

昭和5年(旧制)神戸二中3年の秋、新チームが編成されたときマネージャーとなり野球部との関わりを持つ。

それ以後戦争のため兵役に就いていた間を除き昭和24年春までコーチ補佐、コーチ、監督として母校野球部発展のために尽くした。その間、昭和23年、24年連続選抜大会に出場させるなど輝かしい足跡を残している。

高校野球を卒業?した筒井氏は昭和24年選抜が終わったあと中学野球の発展に取り組んだ。平成12年で52回を迎えた兵庫県中学軟式野球大会の第1回大会(昭和24年)から関与し、県中学野球連盟発足の功労者となった。

明石の大久保中、錦城中などの教諭を務めたが一貫して野球部の指導に当たった。昭和33年(1958)錦城中の監督として県大会に出場、優勝に導いている。旧制中学、高校、中学と筒井氏が指導者として歩んできた野球人生は輝きと満足感に満ち溢れているに違いない。

平成12年6月20日(火)兵庫県加古郡播磨町野添の自宅に土居光夫氏(昭和26年兵庫高卒,38陽会)と共に訪ね神戸二中、県兵庫高野球部の思い出を語ってもらった。

『昭和3年のころは選手は毛糸の防寒具のようなものを着ていたが、マネージャーになってからはジャンパーを着るようになった。夏の大会にはOBがコーチとして来ていたが、私がマネージャーになったとき初めて学校の先生の馬場太郎さんという人が監督として指導をしてくれるようになった。そのときに初めてバッテイングケージと言うんですか、車のついたバックネットが使われた。入学した昭和3年の秋の御大典記念大会(阪神博覧会主催、全国選抜中等野球大会)で平安中、下関商、敦賀商の強豪を連破して優勝したのを覚えている。大橋さん(政一氏=17陽会)がエースとして活躍していたが、そのときのカップが学校に残っていると思う。関大の監督をしていた本田竹蔵さんに先輩の三輪(重雄氏=13陽会)が会社(鈴鹿商店=神戸で有名な社会人チーム)の関係で木村さん(関学OB=昭和10年全国都市対抗野球大会で全神戸が優勝したときのエース)今北さん(関学OB)ら鈴鹿(商店)の方たちを連れてきてコーチをしてくれた。島田さん(叡=あきら=7陽会。三高→東大。最後の沖縄県知事。別項)も一度練習に来てくださったことがある』70年以上も前のことをつい先日のように話す筒井氏。85歳、OB会の最長老である。

その記憶力は鮮烈を極める。『夏の大会は1年のときは決勝で甲陽中に3−4、2年は宝塚球場の準決勝で一中に5−7で負け、3年は甲子園で甲陽に0−16、ボロボロにやられた。余りにもひどい負け方に先輩達の間で大きな問題となった。そして、4年は2回戦で中外商に初めて負けた(2−9)。5年のときは3回戦で明石中と対戦、楠本と先攻、後攻を決めるジャンケンをした。結果は0−10のコールド負け。卒業した昭和8年も2回戦で楠本、中田の明石に負けた。それからは1、2回戦に勝つのがやっとという状態が続いた』このころからにわかに戦雲急を告げ当然筒井氏にも〈赤紙〉=召集令状=が舞い込んできた。昭和11年の夏を最後にユニホームから軍服に着替えることとなった。

戦争が終わり昭和20年筒井氏が軍隊から戻ってきたときすでに二中では野球が復活していた。『22陽会の山脇(健男氏=物故)30陽会の前田(正夫氏=物故)ら何人かがチームづくりにかかっていたようだ。21年、大会を復活しなければ―ということで最初「 OB大会」からと各中学からOBが甲子園に集まってきたまた市岡中におられた佐伯達雄氏(元高野連会長)が全国を回って中学校の野球連盟を作るため努力されていた。兵庫県でも三中の賀須井さんが会長をしていて教頭の渡邉さん、のちの高野連の理事長、会長が中心になって組織作りにかかり兵隊から帰ってきた先輩たちに声をかけ二中関係では大橋さんと僕が参加した。連盟作りに駆け回ったが、昭和24年からは本職の中学(教諭)の方が忙しくなりそちらの方に行ってしまった。もしもあのまま高野連に関係していたら今も高校の世話をしていただろう』神戸二中、県兵庫野球部の〔生き字引〕は昭和24年を境に中学野球に方向転換したのだ。

しかし、戦後復活の直後母校に帰った筒井氏は4年の間に選抜二度出場という素晴らしい足跡を残している。『昭和23年、一旦選抜に出場が決まった滝川がプロの OBとの接触が明るみに出て取消し、代わって二中が出場することになった。今から思うと幸運だったと思う。甲子園では早実と対戦。やっとの思いで勝ったが審判のジャッジがすっきりせずわけの分からないうちに勝ったという試合だった。その次の相手は北野中学。鉄傘が取り払はれたままのスタンドは神戸と大阪の対戦とあって5万人が入場、文字どおり立錐の余地がないほどだった。一番印象に残っている試合だが、2−3で1点差負け。その年予選は決勝まで勝ち進み芦屋と雌雄を決することになった。7回まで3−2とリードしながら8回に3点を取られて5−3で逆転負け。第1回大会以来の夏の甲子園を目前にしての敗戦だけに悔しかった。24年にも連続して選抜に出たが桐蔭の西村というすごい投手にやられた。9回裏、0−3から2点を返してなお三塁に半田、打者藤池のカウントは2−1。次球、半田が一か八のホームスティール、タイミングはセーフに見えたが、濱崎審判のジャッジは非情にもストラックアウト、三振でゲームセット。際どいところで同点機を逸した。この瞬間私の二中における野球は終わった―と言っていい』筒井氏はその年の秋の地区大会を最後に真鍋(宗次氏、16陽会)に監督の座を譲って中学野球に転身した。

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