37陽会  中村博一氏

平成13年3月12日(月)
神戸ハーバーランド、ナックスナカムラ本社社長室で。

『37陽会、昭和25年卒業の私達は終戦直後の混乱した社会の中で学生生活を送り、これ以上ないというほど悪条件のもとで野球をやっていました。総てで恵まれた環境にある今の後輩たちにはどのような手段をもってしても理解してもらえないでしょう。日本の国全体がどん底にあったときですからね。

そうしたなか昭和23年と24年に連続してセンバツ大会に出場したのですから野球部の歴史の1ページを飾る快挙と言ってもいいと思います。金はない、食べる物はない、着る物はない、住む家はない、国民が貧困の極みにあったのですから野球をするにも道具がないのは当然でした。グローブも、ミットも、ボールも、バットもユニホームも何一つ満足な物はありませんでした。高架下にあった闇市で進駐軍(駐留軍)の払い下げと思える物を買い漁ってなんとか格好をつけたものです。
でも、今となればそうした苦しさのなかで野球をやったことは忘れて皆楽しい思い出に変わっています』中村氏はセンバツ出場の嬉しさとこれまでの長い年月が苦しかったことを忘れさせ楽しい思い出に置き換えてしまったと言う。

『私はマネージャーだったんです。ですからグラウンドでの思い出はあまりありません。しかし、強烈に脳裏に焼きついている試合があるんです。それは岡山県に遠征したときのことです。確か相手は秋山―土井のバッテリーの岡山東商だったと思いますが、なにしろ昔のことですからね』 50年以上も前の記憶を手繰る。試合内容かと思ったら全然関係のないことだった。
《忘れられない》ことは『試合のまえの晩に米1升と一万円をもらったんです。センバツに出たときに一万円もらったのですからそれから考えると大変な優遇?と言えます』財務を携わる大蔵省役のマネージャーとしては有り難かったに違いない。
そして『私個人にとって忘れぬことの出来ないこと、それは泊まった旅館で食べたイイダコ(飯蛸)の味です。美味しかった、その味はまさに天下一品でした。食べ物を扱う仕事をしていますが、あんな美味しいものにはその後お目に掛かったこと、いや、お口に掛かったことはありません。イイがぎっしり詰ったタコの美味しかったこと、忘れられませんね』イイダコのシーズンになると岡山で食べたあの味覚が蘇ってくるそうだ。

『マネージャーの仕事は裏方で選手たちが安心してプレーが出来るようにする事です。いろいろあるなかで一番苦労したのはお金を集めることでした。あらゆるコネを頼って先輩を始め援助が頂けるところに行きました。なかでももっともお世話になったのが、向井(同年の向井隆一氏)のお父さんでした。なにかあればすぐにご無理をお願いに行きました。だから私の主な仕事は向井のお父さんに会いに行くこと―と言ってもいいほどでした』

先生たちの思い出も。『軍事教官の森田先生の事は特に印象に残っています。終戦直後《戦争が終わったから野球をやろう》と私たちを元気づけてくれました。国文の松井先生。藤池先生。小柄な物理の藤戸先生。姉崎先生、体育の西沢先生など当時お世話になった先生方への感謝の気持ちで一杯です』
インタービューが始まったころは『昔のことは忘れてしまった』と口が重かった中村氏だが、ひとたび記憶の糸がほぐれると流れるように口を突いて“思い出”が出た。
何歳になっても野球部で過ごした日々は楽しく蘇ってくるものである。中村氏の話しぶりがはっきりとそれを物語っていた。

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