37陽会  河野博氏

神戸二中に入学したころは戦争の真っ只中、野球部は休部状態でした。昭和 20年8月15日終戦、世の中は混乱の極にありこの先一体どうなるのかと不安一杯でした。ところが野球部の復活は思いのほか早くすぐに入部、野球部の一員になりました。用具が揃わなくてずいぶん苦労したものです。全国的にも中学での野球部の活動が活発になり、復興への力強い歩調に合わせるかのように野球熱は上昇の一途を辿りました。

昭和22年の春に選抜が復活、翌23年には神戸二中がその栄に恵まれ兵庫県の代表として甲子園の土を踏みました。大正4年夏の第1回全国大会に出場して以来の桧舞台でした。
この年六・三・三制の学制改革があり、中等学校は高等学校になり、選抜もこれにともなって名称が変更された【第1回高等学校(新制)野球大会】と呼ばれるようになりました。
しかし校名は《神戸二中》でした。ナイン全員嬉しさと緊張のため入場行進のときは足が震えてまるで雲の上を歩いているようでした。
1回戦で早稲田実業と対戦、2−1で勝ち、2回戦は大阪代表の北野中学に2−3で惜敗。
2回戦は1回戦のときとは違って精神的にも落ち着いていましたが、大阪対兵庫の一戦とあってスタンドは超満員、投手がプレートに足を掛けると相手側のスタンドから嵐のような大歓声が巻き起こって投球に集中出来ない。するとキャッチャーの向井君がマウンドにやって来て『耳栓をしたら』と言ったんです。あんな時に冗談を言える向井君って肝が座っているんだなあと思いました。

翌24年にも選抜に出場。1回戦の相手は和歌山の桐蔭高校、西村という物凄い左腕の剛球投手がいて優勝候補の筆頭に上げられていたんですが、実際対戦してみると噂にたがわぬ凄い投手でした。先入観というか“凄い”と言う潜在意識が災いして胸元の高目球に手を出して三振の山を築き、終わってみれば 18もの三振を喫していました。
それでも2−3の接戦、9回裏あわやの場面を逃しての敗戦でした。卒業した25年大阪タイガース(阪神タイガース)に入団したのですが、西村投手も同じユニホームを着ることになり『胸元の高目ボールに手を出してくれたお陰で勝てた』と話してくれました。

2年連続して選抜に出場した事がなによりの思い出ですが、それを力強くバックアップして下さった学校、筒井監督に対する感謝の気持ちは今も忘れる事はありません

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