37陽会  家城章雄氏  

昭和23年春の選抜後に入部し、26年神戸商大二回生の秋のリーグ戦まで現役の投手として四年近く野球を楽しませてもらいました。

昭和24年夏の県代表を目指し、ボールが見えなくなるまで、水も飲まず腕に塩の吹くまでよく練習したものだと思います。そのころ、立教出身の青池さん(清氏、後にプロ野球近鉄へ入団)がコーチとして就任され、あいさつの手始めとしてノックをサードから始めた時のことは、全部員が一生忘れないと思います。ミスをしたり逃げたりすると、一歩前へのくりかえし、最後にはグローブをはずさせ強烈なノックを打たれた時、嘔吐を催す者が出るほどのショックを受けました。青池さんは捕手をいうことでピッチングを受けて頂きました。構えたミットをはずすと受けてもらえず球は後方へ、全力疾走で球を取りに行きマウンドへ戻っては投げるという反復でした。ストライクゾーンの四つのポイントにそれぞれ10球決まるまで、何球投げたことやらよく覚えていません。ピッチングを終えると校庭の端を終日ランニングというのが日課でした。コントロールは足腰、特に腰がポイントであることを教えられました。

商大に入り近畿六大学リーグ戦で、特に近大戦では初戦、先発オール完投、不敗の記録が自惚れの種です。今でも時々思ひ出すのは同期の藤池氏が阪神タイガースのテストを受け入団通知書が玄関の出ばった郵便箱に入っていたため、発見が遅れチャンスを逃したことです。当時すでに三菱重工業の四番打者として活躍していましたが、ちょっとしたことで《阪神の藤池》が実現しなかったのが惜しまれてなりません。とりわけ印象に残っているのは昭和24年の選抜で桐蔭の怪童西村投手から放った痛烈な安打。長田校のグラウンドで打ったセンター前へのヒット−と思われたライナーがグングン伸びてホームランに。それも左腕一本のスイングで。豪打者中西太(西鉄)をほうふつさせる猛烈な打球です。藤池氏が阪神のユニホームを着ていたらタイガースの歴史は変わっていたかもしれません。鳴呼!  

『昭和25年、前年全国高校野球選抜大会に出場した県立兵庫高校から4名の選手が入学、中でも投手家城章雄は持ち前の豪速球で対近大戦2試合完封勝利を挙げ、両3度優勝決定戦を戦った』=近畿学生野球連盟創立50周年記念誌《球跡》の商科大学誌から=

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