37陽会  柳生 茂氏

昭和 39年〜47年の 9年間(実質年間)母校県兵庫高の監督を務め昭和41年春勝投手を擁して第38回選抜大会に出場。昭和48年〜 53年の年間野球部部長。

昭和38年 8月野球部のOB会で姉崎先生から「兵庫高校野球部再建のため監督になって欲しい」との要請がありました。当時私は中学校(大橋中学)の教師でしたし、高校の硬式野球の監督が務まるだけの球暦はありませんでした。中学、高校の計4年間しか経験は無く自信なんかありませんでしたが、終戦後の混乱期にわれわれを熱心に指導して下さった筒井監督への恩返しになれば、そして後輩達のレベルアップに少しでもお役に立てば−と思いお引き受けすることにしました。

17回生(昭和 39年卒、52陽会)の選手は常徳君(=志良氏=昭和 28年卒、40陽会)の指導よろしくレベルの高いチームでいい試合をしていました。

私は18回生(昭和40年卒、53陽会)から監督を引き継ぎましたが、新チームの部員は20数人、選手の数は少なかったですが、全員が意欲十分、監督の私が引っ張られるように感じたほどでした。

19回生(昭和41年卒、54陽会)の2年生のとき、昭和40年秋の県大会に同じ地区から育英、滝川とともに出場、3−1北条、8−0葺合、8−5竜野実と勝ち進み、準決勝で明石に1−4で敗れましたが、敗者復活戦7−1で滝川を破り2位決定戦で1−0明石を退け2位になり近畿大会の出場を決めました。その間試合日程の都合で修学旅行を諦めざるを得ませんでした。強豪の報徳が3回戦で滝川に負け姿を消したことも幸運だったと思います。

近畿大会の1回戦で新チーム結成以来負け知らずのPLと対戦、予想を覆して2−1で勝ち翌年春の選抜出場に大きく前進しました。 2回戦の相手は高野山高、13で敗戦。しかし、近畿大会での活躍が認められて 41年の選抜に出場する事が出来ました。選抜では私の経験不足により、選手たちの体調、調整の失敗で大敗を喫し期待に添うことが出来ませんでした。監督年、部長 7年野球の発展にたずさわって来ましたが、いろいろ悪条件もあり強力なチームを作ることは出来なかった事は残念です。しかし、思い出はいいことばかり、最高に満足の行く母校での野球部生活でした。

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