38陽会 土居光夫氏

 小学生のころは『神戸二中に行ってラグビー部に入り有名選手になる』ことが夢でした。その理由は兄の親友が二中−慶応を通してラグビー部で活躍した素晴らしい選手がいたのと家族が機会あるごとに試合の応援に行っていた周囲の環境にあったからです。

 昭和203月の神戸大空襲で家が全焼して田舎へ。終戦になり神戸に戻って神戸二中に復学、目標通りラグビー部に。ところが違う道へ進んでしまったのです。校内野球試合でのプレーぶりが目立ったのか野球部から誘いが。今でもはっきり分からないのですが、何故かラグビーの事は頭の中から消え野球のユニホームに袖を通していたんです。これが以後野球と長い関わりを持つスタートになったのです。

 昭和24年二年のとき選抜に出場、甲子園の土を踏みました。三年の県予選は準決勝で明石に敗れ高校野球は終わりました。そして、関学大に進んで四年間、8シーズンで関西六大学(旧)で春三回、秋1回の優勝に貢献することができました。昭和27年、神宮球場での第1回大学選手権大会で準優勝、私の野球人生は順調そのものでした。社会人野球でも昭和34年大阪代表として都市対抗野球大会(後楽園)に出場3位(黄獅子旗)を獲得と、悔いのない現役生活を送ることができ自分としては満足のいく道程を歩みました。

 個人記録としては他に例を見ない珍しいものを残しているんです。昭和29年秋の立命戦で紀藤投手の投球を12球ファウルしたあとの19球目を左前に安打したんです。正式な記録が残っていないのが残念です。

 平成10年のある日、関学野球部である時期ともにグラウンドで汗を流した野瀬先輩と久しぶりに街で会ったのです。そのとき『関学野球部百年祭の行事の一環として野球部史を作成している』ことを聞いたのです。そしてたまたま取材に行く先輩が関学野球部OB最長老の三輪重雄氏(93)、三輪氏は神戸二中のこれまた最年長のOBでした。そこで私も同行することに。全く年齢を感じさせない明晰な記憶力で素晴らしい話を沢山聞かせて頂きました。二中と関学の生きた歴史書といった感じでした。そのときです。『神戸二中・兵庫高校も野球部史を作ろう』と頭にひらめいたのは。

 平成10年の第80回全国高校選手権記念大会の入場式に関学高、県神戸と兵庫県から3校が皆勤校として招待され入場行進に参加、伝統の重さをひしひし感じたものです。この伝統を後輩にきっちり残さないと一部史作成の気持ちは固まりました。早速武陽野球部役員総会の承認を頂き以後関係各位の協力を得て本格的に行動を起こし発刊の運びになったのです。微力ながら参画する事ができ《神戸二中・兵庫高校野球部》の歴史を未来につなぐことができたことを嬉しく思っています。

 野球と出会い、野瀬さんとの偶然の出会い=この二つの出会いが部史を作るきっかけとなったのです。

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