50陽会  増田勝氏

昭和35年4月、真新しい銀ボタンの制服に身を包んだわれわれは、晴れて県立兵庫高校の正門をくぐった。そして躊躇(ちゅうちょ)なく野球部へ。学年500数人、恐らく20人以上が新入部員となった。中学校でエースだった者、主軸打者だった者、県大会、近畿大会で活躍した者らそうそうたるメンバーがそろっていた。

しかし伝統の野球部の現実は華やかな見掛けとは裏腹に大きな段差があった。まずボール縫い、もちろん授業中に、時には6時限に制服の下にユニホームを着ての授業、水撒きとグラウンド整備、練習といえば大声出し。走ることだけはレギュラーと一緒。そして待ちに待った練習後の説教と反省、当然帰宅時間は遅くなっていった。

勉強するために?入学した者にとっては、そんな過酷な日課に一人減り、二人減り、気がつけば1ヵ月後にはもう両手にも満たない人数になっていた。でも残った者の心の中では野球が好き、野球さえしていれば自分の存在がそこにある。通知簿のことは少し我慢してもらおう。そしてなによりも幾多の先輩たちが通り過ぎた道なんだと言い聞かせながら延々と続く練習にもなんとかしがみついていった。

あのころ、終わりのランをしているとセンター後方のユーカリの大木の近くにスーと先輩の姿が!そして再びノックの雨、ボールが見えなくなるなればスライディング練習、仕上げはベースランの連続。このときほど先輩をうらめしく思ったことはない。だが、終了後マウンドを囲み夜空に向かって野球部歌を大声で張り上げた爽快感は今でも懐かしい。もっとも半分ヤケクソやったと言う者もいるが…。

楽しみと言えば帰りに先輩のお母さんのお好み焼き屋さんで“そばめし”を食べたり室内商店街の「来来軒」とか「入船食堂」でラーメンやミルクなどを食べることだった。

昭和37年7月、最後の夏の県予選2回戦、西宮球場で初めてナイターを経験。カクテル光線に浮かび上がったグラウンドは何か別世界にいるような感動だった。試合は出石高校に打 ち勝ち3回戦に。ついにあこがれの(甲子園球場)の土を踏むことになった。対県西宮戦、朝日を浴びてのシーソーゲームだったが、残念にも2−4で惜敗、敗れて悔いはない。練習の成果をすべて出し切ったのだから…。

その後の人生において野球部で学んだ数多くの教訓がどれだけ役立ったかは計り知れない。『高校時代懐かしいけど野球を取ったら何も残ってへんな。あの甲子園の土を踏んだんやで』本当に県兵庫の野球部でよかった。

平成117月に球友が一人先に旅立ってしまった。棺に添えられた硬球を握って広い天国を走り回っていることだろう。『先輩ばっかしでやっとれんわ。早よ来い!』と叫びながら。

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