昭和9年(22陽会)1934年

NO1

《武 陽》
省略……上野前校長先生が月刊武陽に二中創立時代の運動部就中我部の事に關して、御書きになってゐるが之をちょっと御借りして記してみよう。以下……省略……
 何んと云っても、新興二中の野球部にとって、忘るゝ事の出來ない存在は池田先生である。先生は神戸在學當時から所謂文武の達人であった。先生が學業に於いて常に同級中の首位を占め、終始級長として活躍せられた事など今更めて、書く迄もない。

 運動の方では端艇の選手であったが特に野球に於いては、神中創業時代八銭のボールに薪を削ったバット、素面素小到で猛烈な練習をを強行した當時より有望の選手として嘱望せられて居った。明治三十三年神中が天下に率先して始めて在留外人團と東遊園地球場で一戦を交へて、壓倒的大捷を博した時には、早や一壘手として、抜群の手並を示された。

 此の一戦は西洋崇拝なほ盛んにして、野球では迚も外人に敵はぬと自屈してゐた従來の迷夢を一掃して劃期的のものであった。大きく云へば日露戦役にも比すべき野球界に於ける日本精神の勝利であった。戰は勇しく又痛快であった。觀衆の喜びは其の極に達した。私自らが野球ファンの一人となったのも實は此の時からであった。
 
 當年の神中選手は捕手でも面だけつけて、胸當も臑當もなくやっとミットを持って居る程度で其他は推して知るべしであった。そして白シャツ、黒脚。袢黒足袋に身を固め、白手拭の後鉢巻で巨大な外人軍と入り亂れて馳せ交った勇姿は今も目の前にチラつく様である。觀衆は口々に赤穂義士、赤穂義士と噪いでゐた。これが又一層滿場の痛快感をそゝったものであった。

 先生はその後捕手となり、キャップテンとなられて、神中野球部は其の黄金時代を現出した。そして廣島高師學生時代同附屬中學教師時代を通じて、終始一貫益々磨きをかけられたのであるから、二中開設に方って、池田氏來るの報が學校の内外に非常なる期待を以って迎へられたのも固より當然の事であった。そして先生が又此の期待に背かない懸命の努力をせられたことも云ふまでもない所であった。

 池田先生は血と涙の人であると同時に不言實行の人である。先生は當時英語を受持って居られたが其の指導振りが實に熱そのものゝ様であった。大抵毎日四時間づゝ教へても尚ほ飽き足らず、他人の缺席等の時は進んで其の補充を引受けられた。そしてその授業の準備と後始末とがまた先生獨得で大變なものであった。

 中學の初年級に英語の初歩を教へるにさへ、一時間の授業に二時間以上の準備と後始末とを要すると云って居られた。而もその忙しい中に、毎日午後の終業の鐘の鳴るや否や、白シャツ、白パンツの先生の姿が眞先に武陽原頭に見出される。そして同じ服装の少年球士がバラバラと教室から駆け出して、先生の周圍に馳せ集る。やがて血の出るやうな練習が運動場一杯に展開せらるゝのであった。

 先生の野球は決して單なる運動でもなく、又技術でもなかった。實に熱であり、意氣であり、精魂であり、信念であり、視角を更ふれば實に先生の教育そのものであった。這般の消息は創業後間もなく先生等の手に成った我が野球部歌に烈々と歌出されて居る。

☆二中應援歌☆
〔其一〕
 一、武陽ケ原に咲きほこる   萬朶一朶の櫻
   その下蔭に鍛へたる    腕を奪はん時至る。

 二、神撫山下の朝ぼらけ   勝どきの聲高らかに
   いでや勝利の榮冠を   いたゞかんかな時至る。

 三、湊川原の新緑に   友よ來りて歌うたへ
   我等が軍は勝ちにけり  覇権の劍我にあり。

〔其二〕
 一、ユーカリ樹下の武陽原  榮華の巷を外に見て
   至誠の旗を手にかざしつゝ  此に處鍛ひし我が腕。

 二、茅海白く波光り   神撫山下に夕日落つ
   聞け我軍の勝どきの聲  榮ある戦士の其の勲

〔其三〕攻撃
 一、打てば勝つ二中の軍は  昇る陽の光に滿つる
   何事ぞ身程知らで  とつ我に射向ふ彼等。

 二、いでやいで我九勇士の  腕もて守れる所
   豈やすく彼等の足の   汚すまヽに汚さしめんや。

 三、いでやいで打ちて盡して  いたゞかんかな勝利の冠
   いでやいで追ひ退けて   握らんかな覇権の劍。

〔其四〕
 一、見よや天下の諸人よ  神撫山下に健兒在り
   健腕こむる幾星霜   奮へ奮へ。

 二、見よや天下の諸人よ  武陽原に鍛ひたる
   至誠の念清くして   奮へ奮へ。

 〔其五〕復讐
 一、怨を呑んで地に潜む  此の斷腸の一年を
   今勝たずんば何時の日か  いかで覇権を握るべき。

 二、嗚呼陰惨の一星霜    男兒が涙あだならば
   友よ自重を如何にせん  榮ある歴史如何にせん

 三、地を吹拂ふ紅は    我等が武陽の旗印
   天驅けりゆく熱球に  武陽の意氣見ずや。

 四、嗚呼傳統にすゝり泣く  武陽原頭我立てば
   自重と自治の精神の   焔燃出づいざ舞はん。

 〔其六〕復讐
 一、過ぎにし年の恨をば  如何でか忘れん益荒男の
   思ひに思ひし復讐を  なすべき時はいまなるぞ。

 二、臥薪嘗膽幾月ぞ  會稽の恥今此こゝに
   雪ぎて凱歌をあげんかな  起てや武陽の健男兒。

〔其七〕略す

〔其八〕
 一、紅勾ふ曙に   天そゝりたつ東の
   神撫の姿を心とし  新興の意氣輝ける
   礎こゝに二十六   尊き歴史を思ふかな。

 二、ふりにし甍仰見れば  嬉しからずや我友よ
   自治の樂土の木下陰  集ひし永久に清ければ
   幾春秋は迫るとも   盡きぬ喜びこゝに湧く。

 三、強き翼を飜し  鵬程萬里の波を分け
   永久に榮えゆく心もて  濁流を打沈め
   下界を眼下に睥睨し   いざ勇飛せん秋津島。

 四、波静かなり芽海の  姿不變の神撫でと
   四海の波は荒くとも   質素剛健自重自治
   雄々しく歌を唱ひつゝ  いざや世界に勇飛せん。

 〔其九〕
 一、時延元の其の昔   五月雨の空晴間なく
   神撫山に雲下りて  岩浪高し湊川。

 二、波路はるかに明石潟   潮と寄する大敵は
   不知火燃ゆる九國の   精鋭すぐりし五十萬。

 三、よしその敵は多くとも  我に忠魂義謄の士
   轡をならべて七百騎   蓋世の意氣天を突く。

 四、劔戟の聲酣なはに    獅子奮迅の勇を起し
   三時が程に十六合    天柱碎け地軸裂く。

 五、生田の森の浮足に    腹背の敵迫り出で
   嗚呼忠臣が英靈の    憾は久し五百年。

 六、王政復古の業は成り   日清日露の大勝に
   萬朶の花と咲匂ふ    我が日の本の勲しや。

 七、太平の夢まどらかに   安らふ國に憂有り
   ローマは焼かれ随滅す  歴史に著るき例あり。

 八、思想の分に障なく    泰西の雲競ひ來て
   遠く東亜の天暗し    拂はん術ぞ誰か知る。

 九、我が意氣魂の行く所   嵐に飜へる暴鷲も
   怒涛さか巻き雲を呼ぶ  蛟の精も何かある。

 十、七世報國盡忠の   雄叫びの聲高らかに
   濁世に起てる健兒等が  九天の概君見ずや。

☆昭和9年度野球部員☆
 五年級=能勢正博、島野 實、佐藤公男
 四年級=吉田雅彌
 三年級=加島 大、葛野 弘、矢野啓司、津田義男、藤井 豊、田淵義知
 二年級=山本一郎、高原希國、葛西正平、木村 治、中村 聰
 一年級=福本榮次郎、井上純一、辻本正義

〈神戸新聞〉
[第2回縣下中等學校優勝野球大會]

 昭和9年4月4日(水)明石公園球場
 審判・泉谷(球)山脇(壘)
▽1回戦
 關學中學部 540 32=14
  神戸二中 100 02=3

 (5回コールドゲーム)
 關學=門脇、鍛冶屋−岩崎
 二中=島野−佐藤

〈朝日新聞〉
【第20回全國野球選手権大會兵庫豫選】

 昭和9年7月30日(月)甲子園
 開始午後零時44分=閉戦2時10分 審判・生駒(球)三輪梅、池田(壘)
▽1回戦
 第一神港 411 07=13
 神戸二中 000 20=2

 (5回コールドゲーム)

 〔第一神港〕     〔神戸二中〕
 中  裴  27打數18 中 能 勢
 右 辻 田 10安打2 左 山 本
 捕 濱 田 4三振3 二 津 田
 投 有 本 7四死4 捕 佐 藤
 一 玉 置 4盗壘0 遊投 矢野
 左 大 多 2失策2 投遊 島野
 二 大 森 2二打0 三 高 原
 遊 露 口      右 木 村
 三五百旗頭      一 葛 野

 △二壘打=裴、大多

☆劈頭からの猛攻 二中苦闘を重ね 13−2第一神港勝つ☆
◇……〔神港第一回に四點〕神港打氣に出でまづ裴中越二壘打、つゞく辻田、濱田四球、有本の遊匍失に裴還り、玉置、大多の遊匍、大森の中前好打に合計四點を擧げ試合を決定的にす。

◇……〔二中屈せず追撃〕神港更に第二回裴、濱田、有本の三安打で一點、第三回五百旗頭、辻田の二安打に一點を加へたが、二中屈せず第四回裏、先づ佐藤四球に出で、矢野安打、續く島野、木村の二四球に押出しの一點をあげ、葛野の中前安打に更に一點を加へる。

◇……〔神港猛攻撃〕第五回神港再び猛攻撃を開始、大多の左越二壘打についで大森遊匍失に生き、露口、五百旗頭の四球に大多還り、二中島野退き矢野投手となり防いだが、裴四球、辻田の安打に再び島野と交代、収拾に努めたが、有本の安打、玉置の一匍野選に一擧七点を加ふ。二中同回裏回復に努めたが、守備力、打撃力の差を如何ともなし得ず、十三對二、五回コールドゲームで神港勝つ。

23陽会(昭和10年卒)
 能勢 正博    左翼
 島野  実    投手
 荒川 義春    
 中内 省三    三塁
 佐藤 公男    右翼