明治41年(1陽会)1908年

NO5

【對外奮闘史】=初の神戸一中戦=
 無情に似たる白雲は、涙となりて落ちにけり。
 其れ明治四十一年當に秋酣なる十月十七日。錦は山を飾り、蘆葦は秋風に吹かれ、颯々たる木々の梢より獨り美妙なる歌を耳に傳ふるの今日此頃、正に運動の好季也。蒼天高き本日東遊園地にぞ第一中學の野球大會は開かれける。

 吾校の選手其の招待を受けぬ。健兒の外に出づる、之を以て濫觴となす。然り而して吾等入學以来、此所に纔か六ケ月餘の月日を過したるに過ぎずとは言へ、此の六ケ月の努力や實に此の壮漢をして期せざりし本日に會せしめたるは、之れ全く天の致す所ならむ。余等は余等をして此の馬肥ゆる秋に、槍杆を握らしむるは之れ何たる壮快ぞや。何れ劣らぬ十八騎。戦は午前に開かれぬ。記せよ兩軍の面々を、

明治41年10月17日(土)東遊園地。
 神戸一中001 021 2=6
 神戸二中000 000 0=0


(一 中)     (我 軍)
 木村     P  直木(重一郎)
 松尾(賢治) C  井口(留市)
 塚本(政一) SS  菅(和三郎)
 増井(正治) 1B 中村(従吉)
 井上(市太郎)2B 小野(静夫)
 松下     3B 村井(伊太郎)
 田村(一良) LF 伊井(勇助)
 今井(一二三)CF 角尾(純二)
 中通     RF 吉川(眞蔵)

 我軍先づ陣を敷きぬ。本日の敵の先鋒松尾と承る。彼一振戞として飛球は左翼に至りぬ。我軍の老将伊井悠として之を取る。續く松下。増井共に直木の魔球に弄されけむ、遂に本壘に死しぬ。
 而して一中軍代り守る我軍攻むる時、漸く四隣より起る應援隊の叫びの裡に悠々としてボックスに現れたるは、我軍の勇将村井にてありき。

 一氣一振、熱球を三壘に送りてセーフ。伊井の老将四死球を利して一壘を踏むや、角尾デッドボールにて亦もや生き、村井三壘に進みて此所に滿壘となり、あはや花々しき活動も聞かれむとせり。而して吉川、井口共に小フライに死して、後續かず。

 惜むべし吾軍長蛇を逸して、第一戦は恨を呑んで終りを告げぬ。而して第二戦は始まりぬ。敵将塚本フライに死し、續いて現はれたるは木村、直木、井口等の妙腕にぞ弄せられけむ、脆くも本壘の露と消え、井上亦堅固なる我軍の守備を破るを得ずして倒れぬ。二中軍奮起して敵軍を蹂躪せむとせしも、空しく木村の為に名をなさしめて、二戦も止みぬ。第三戦今井早くもデッドボールに出でて、二壘に進み。

 田村の打ち出す犠牲球に生還して、本日の一番槍の功を建てぬ。たちまち起る拍手喝采の聲と共に、敵軍の意氣此所に百倍し、一擧して大事となさむとせしかば、我軍益々守備を堅にして厳然たり。直木先づ左翼打に成功して生き、二壘に至らむとして悲しや、空しや、屍を二壘に曝すとは。

 好打者村井、伊井續いて出でたるも空しく木村に名をなさしめて萬事休矣。第四戦も過ぎて五回の幕は徐々として開かれ、一中軍最後の近づきしとや思ひけむ押し寄する槍手は、益々急を加へて、急霰直下の如し。此所に於て投手直木も之を防ぐ術もなく、且つ勞を催し始めたる時なりしかば遂に一擧し、今井、松尾轡を列べて牙城に入りぬ。

 二番槍の功を奏して六回又一を加へ、七回になりて松下、塚本の犠牲球に生還して一點を加へ、此所に最後の幕は閉ぢられて、六對○の敗北となりにけり。

 我軍涙を呑んで軍を還しぬ。あゝ本日の失錯部門の瑕瑾!!!之れ全く懸って余等の肩にあり、期せよ。會稽の恥雪がるゝ日の近きにあらむを。戦は敗れたりとはいへ、其の氣や實に鐡石の如く、其の腕や實に神威あるが如し。

 武陽の健兒よ。決して躊躇する勿れ。木の葉落ちて秋寂寞。唯寂寥を呼ぶ間もあらばこそ。勵みに勵めよ。而して光明ある被岸に達せざるべからず。