明治41年(1陽会)1908年

NO1

《武 陽》
 至誠旗の下に活動努力せし武陽健兒團の歴史を書かむとす、
白駒の隙を過ぐる如く我校創立以来茲に三星霜、百五十の健兒は四百となり、九人の先生は二十人となりて、増加と共に其の發展も日に月に止まる所を知らず、然り而して、星移り物變れど唯變らざるは、健兒の胸中に漲れる奮闘的精神と、其の場所を問はず時を撰ばず常に烈々たる氣概と之を護れる神撫山とのみ。

 神撫山の光益々強くして、理想の星は益々高く、月日は矢の如く去りゆきて先生の教訓は漸く功を奏し、活動は實を結び歴史は文をなさすむとす。

 吾野球部は第一代の部長として池田多助先生を戴き、溷濁たる空氣充ちに滿ちたる時、ひとり超然として此無垢の武陽ケ原に呱々の聲を上げ、而して部長池田先生は東奔西走此の赤子たる部をして、如何にもして其の發達を期せしむと努められたるぞ辱き、現在の校友否後進の諸子といへども宜しく其の恩ある所を知らざるべからず、先生は實に本校の野球部の創立者にして、亦本部の慈母也、延いて校風の作成者也。

 而して此の慈母や部未だ幼なき四十二年の九月十三日を以て本校を去られたり、然りと雖も其の部を思ひ給ふこと猶我子に於けるが如し、時に筆を寄せて教へられ、亦寒風肌を刺す如き冬の日も、熱暑焼くが如き夏日にも、暇ある限りは猶其の壮姿を運動場に見はし、孜々として教へらる。

 それ武陽四百男子。記して失する勿れ、我が球界に先生ありしを。亦記せよ、健兒の双肩重く報恩の義務あるを。歴史は文をなして本日此所に吾が野球部を回顧せむとす。

       [部  歌]
 大空高き鷹取の      下に立ちたる武陽城
 寄せ來る敵は百萬の    潮と巻いて逆まけど
 怒涛を抜いて聳ゆるは   揺がぬ巌の姿かな
 鳴呼世は去りぬ百萬の   健兒何所に濳めりや
 鳴呼世は如何に百萬の   男子何等の概ありや
 妖雲暗く地をこめて    濁流高く天をつく
 其の濁流は高けれど    其の妖雲は暗けれど
 城を守れる武夫の     心は清き天上の
 理想の星の永久に     神撫山頭影さやか
 其の影清き星の下に    至誠の念を錬ふべく
 秋の紅葉と春の花     月と雪とを外にして
 此所に鍛へし我力     鳴呼腕は鳴り肉躍る
 時は來らむ今ぞ今     天軍城を出づるべく
 我が腕の程驗すべく    魂のほど示すべく
 仰けや友よ我が上に    常勝軍の旗高し

【二中の校歌、野球部歌について】
 杉村 伸氏=大正10年卒、9陽会=が《武陽通信44号》に次のように書いている。

『なつかしい二中の校歌「武陽原譜」−「名も千歳は」−は、創立当時の恩師で、佐賀の葉隠れ武士の流れを汲む故白井敏輔先生の作で、曲は軍歌『煙も見えず』であることは武陽人各位御承知であろう。

 =日清戦争当時の軍歌『勇敢なる水兵』とも言われている=尤もこの曲については、曽て海軍大将山梨勝之進氏が、艦長としてドイツを訪問した時、この曲を軍楽隊に奏させた処『日本の軍艦から讃美歌が流れてきた』と感心されたという事が、大将の思い出話にあったので、その後機会ある毎にキリスト関係者に聞くのであるが、まだわからない。クリスチャンの友から教えてもらいたい。』

☆この《武陽通信44号》の記事に対して早速反響があった。《武陽通信45号》に再び杉村 伸氏は筆を執っている。
 田中忠雄君(大正10年卒、9陽会=行動美術審査員=)から次の通りの一文を受けた。

『武陽に出ていた貴君の校歌の曲についての疑問につき参考までにお知らせします。あの曲はもともとマーチ風なもので、18〜19世紀頃、ドイツあたりで作られたものではないでしょうか。プロテスタントは福音讃美歌として民衆にうたいやすくするため、世俗曲や行進曲に、信仰的な歌詞をつけてうたわせていた例が多く、バッハのカンタータにもその例があります。
 アメリカにも多く、日本でも私の少年時代の讃美歌には沢山ありました。曲の性格からいうと、あのようなマーチ風なのは、そんなに古くない筈です。後略』

☆日本の軍歌の曲とドイツ讃美歌との間にどのような関係があったかは説明がつかない。その曲が昭和23年野球部が春の選抜に出場、早稲田実業に勝ったあと校歌として甲子園球場で演奏された際スタンドに異様などよめきが起こったという。

 戦争が終わった直後のこと『軍歌の曲なんてとんでもない』と思った人が多かったからだろう。〈讃美歌〉〈軍歌〉この錯誤をどう説明するか、人それぞれ感じ方、受け止め方によって違うが、ともかく当時は〈軍歌〉としての先入観があったので“軍国調”と解釈した方のが多かったようだ。

 そのため『当時の音楽教師だった南山先生が曲を変えて翌年の選抜に臨んだと聞いている』(構 擴司氏=昭和18年卒、31陽会)しかし、24年は1回戦で桐蔭高に敗れ甲子園での校歌吹奏はなかった。一説によると校歌の代わりに野球部歌を−ということも考えられていたと。

☆昭和24年、学制改革で〈新制高校〉になり[兵庫県立兵庫高等学校校歌]が作られた。だから《武陽会、野球部》では神戸二中校歌、兵庫高校校歌、野球部歌を臨機応変歌い分けているという。時が経ち神戸二中(第二神戸中)の卒業生が少なくなるにつれてその校歌は消滅の一途を辿ることになる。

[兵庫県立第二神戸中学校校歌]
 作詞者 旧職員 白井 敏輔氏
 作 曲 ドイツ讃美歌
 [兵庫県立兵庫高等学校校歌]
 作 詞 本校国語科教官合作
 作 曲 20陽会卒業生 網代栄三氏

  また、杉村氏は『野球部歌』について《武陽通信44号》で 野球部歌の『大空高き』は、創立当時野球部長であった池田多助先生(後の神戸一中校長)の作で曲は一高の寮歌である。
 二中の野球部と一高の野球部とは第1回卒業生(大正2年卒、1陽会)の故菅和三郎氏(楠公前菅園の出身、外交官として有名であった)が、一高でも野球選手をしていたので、コーチを往年の名投手の谷本氏=大正4年は遊撃手、五番、大正5年以降は投手、五番。東大に進んだ大正7年3月の一高戦では捕手、二番の記録が残っている=に頼んだのが始まりである。

 後年神戸の裁判官をしておられる谷本氏に会った時『一高では軟式庭球は女性的だとして排斥したした。それでも庭球をやる奴があるので憤慨した男がコートに人糞をまいた事もあった。ところが菅君から聞くと神戸二中もあらゆる運動は正課に準じてやらせているのに、庭球はやらせないとの事で、それは面白い学校だと感じてコーチに行った』との事であった。
と書いている。《武陽通信44号》は昭和45年10月の発刊なのでその後新しい事実が判明しているかも知れない。ともあれ野球部歌の曲は一高の寮歌であることは違いないようだ。