話  題

NO2

平成13年(2001)現在、二人の県兵庫硬式野球部のOBが大学の監督を務めている。
藤田 良氏=昭和29年卒、41陽会。関西学院大学軟式野球部監督。
田中博人氏=昭和30年卒、42陽会。甲南大学硬式野球部監督。
     
それぞれ出身大学の野球部で監督に就任している。


◎藤田 良氏
『われわれが在部した昭和28年ごろは兵庫県の高校野球全盛時で全国的にみてトップレベルにありました。27年夏の全国大会で県芦屋が、28年春の選抜で初出場の洲本が全国制覇と甲子園大会で兵庫県の高校が連続して優勝を飾り春夏の優勝旗を独占するという快挙を成し遂げたのです。

 そうしたハイレベルのなか参加校96校の28年の県予選で準々決勝、ベスト8まで勝ち進み、西宮球場で対戦したのが洲本でした。
 初回二死、遊撃失で出塁した走者を一塁に置き加藤(近鉄)に左翼席に2ランホーマーを喫し度肝を抜かれましたが、以後追加点を許さず、3回に1点を返して2−1で9回裏を迎え都の中前打と川上の二塁打でしぶとく同点に追い付き延長戦に。

 11回裏二塁走者の藤井が都の中前打でホームを突き寸前タッチアウト、惜しいサヨナラのチャンスを逃し、14回に1点を失い2−3で悔し涙を飲みました。選抜優勝校を追い詰めながら敗れたことは“健闘”で片付けられないものがありました。

 また、この年、好投手林(慶応−鐘化)を擁する神戸高校との定期戦で戦前の予想を覆して勝ったことも忘れられない思い出です。

 県内外の強豪校と相互に招待試合を通じて対戦する機会が多く、のちにプロ野球などで活躍した選手たちと顔を会わしたこともありました。記憶に残っているのは、和歌山に招待されたとき前岡投手(阪神)の新宮高に勝ったこと、名古屋から遠征して来た中山投手(翌29年夏全国優勝−中日)の中京商と引き分けたことです。

 このほかにその年朝日新聞の招待で来日、全国を転戦していたハワイ高校選抜チームが洲本高と対戦することになり、そのアトラクションゲームに兵庫高校が参加したんです。試合場に行く関西汽船に同船した彼らから実に新鮮な印象を受けました。

 兵庫高校での野球部生活は厳しい練習に明け暮れた日々でした。、またチームメートとすごした3年間は貴重な体験であり、楽しい青春の思い出を綴るものです』

◎田中博人氏
 
母校甲南大学の監督に就任したのは、平成12年7月のこと。そのとき田中氏は64歳。それは昭和43年(1968)以来32年ぶり再度の監督復帰であった。
 県兵庫−甲南大を通じて主将、内野手として活躍。昭和41年(1966)の選抜出場のときは県兵庫のコーチを務め陰の力として貢献した。

『兄教仁(37陽会)の影響もあり、小学校に始まり中学、高校、大学、社会人(丸善石油)と常に野球とともに歩んで来ましたが、それぞれの時代に思い出があります。

 大学時代は連盟委員長をしたこと。社会人時代は昭和天皇の天覧試合。沖縄遠征(まだ米国の占領下にあった)のとき神戸二中の大先輩島田 叡元沖縄県知事を祀る「島守の塔」にお参りしたこと。多くの貴重な体験をしました。それらの原点は兵庫高校野球部の3年間にあると思います。

 3年のときは中村(旧姓城野)中西、川上、宮本と小人数でしたが、1、2年には森滝、広沢、三瀬、鳴川、藤本、岡本、天野、浜西、小橋、高橋、石原、松野、岡本、長岡ら優秀な選手が多く、春の県大会はベスト4、神戸高校定期戦3連勝。また選抜生野大会出場など思い出深いものがあります。

 翌30年後輩たちが選抜大会に出場しましたが、その基盤を作ったのはわれわれだと思っています。3年間殆ど休みなく日没近くまで練習に励み、合宿では10人もの先輩が来られてマンツーマンで厳しく指導をして頂きました。疲れ切った練習のあと『大空高き鷹取の…』の部歌を全員で斉唱し明日への英気を誓い合ったことも懐かしい。

 大学3、4年のとき眞鍋先生の要請を受け夏の県予選のみ臨時監督を引き受けました。その二年目、昭和34年の県予選でその春の選抜に出場し、優勝候補NO.1の呼び声高かった県尼崎を国本、山下、牧之内、上田、徳田、中村、笹山たちの活躍で破り兵庫高校の名を高めるとともに在校生の間に活気を呼び起こしたことも感慨深いものがあります。
「兵庫高校球児ここにあり」再び“兵庫旋風”を巻き起こしてくれることを切望しています』
 ***平成23年(2011)8月27日、死去(享年75)
                            追想記事 はこちら