昭和51年(64陽会)1976年

NO1

[対県神戸高野球定期戦]
 県兵庫 7−5 県神戸

【第58回全国野球選手権大会兵庫予選】
 ◎県予選登録メンバー◎
  部長 柳生  茂
  監督 上月 賢三
  投手 平川 隆三B
  捕手 嘉地 克行B
  一塁 大賀  茂B
  二塁 峯 富久次A
  三塁 越後  悟A
  遊撃 外山 一彦A
  左翼◎菅沢 弘行B
  中堅 石野 善弘A
  右翼 黒山 浩二A
  控  塩谷 輝夫A
  〃  林  譲治A
  〃  永田 精哉A
  〃  大石 芳裕A
  〃  吉沢 幹夫A
  〃  前田 忠昭A
  〃  近谷 雅彦@
  〃  吉川  淳@

〈神戸新聞〉
昭和51年7月22日(金)姫路球場
▽1回戦
 県兵庫 000 200 020=4
 市 川 101 001 000=3


 (県兵庫) 打安点   (市 川) 打安点
 E 外 山 410   B 春 名 520
 F 菅 沢 410   H 大内田 300
 D 越 後 400   D1 花房 310
 A 嘉 地 510   G 宮 田 321
 B 大 賀 310   F 板 家 301
 H 黒 山 220   E 平 仲 400
 @ 塩 谷 400   C 山 下 311
 G 石 野 301   @ 米 田 100
 C  峯  411   H 西 川 100
             5 伊 東 100
             H  北  100
             A 永 沢 310
     計 3372       計 3173

(兵)84400110
   振球犠盗失併残
(市)1512307

 ▽三塁打=宮田 ▽二塁打=外山 ▽暴投=塩谷 ▽2時間36分

〔評〕市川の自滅だった。兵庫は、四回遊ゴロ失に恵まれて追いついたが、八回の同点も敵失によるもの。一死一、二塁後、塩谷の三ゴロを野手が二塁へ悪投して大賀生還。また一、三塁で石野が浅い中飛のあと、峯の一、二塁間前への緩いゴロを一塁手が飛び出し、二塁手が取ってベースカバーの投手に送ったが間に合わず、内野安打となって黒山が逆転決勝のホームを踏んだ。
 市川は六回山下のタイムリーで3点目。五回から登板の花房で守り切る作戦だったが、守りの乱れは計算外だった。

昭和51年7月25日(日)神戸市民球場
▽2回戦
 飾磨工 200 000 000=2
 県兵庫 000 000 000=0


 (飾磨工) 打安点
 F 人 見 100
 C  釣  310
 E 岸 本 300
 B 高 橋 400
 A  桂  421
 G 岡 下 300
 H 塚 川 200
 H 平 石 100
 9 川 辺 110
 D 川 端 400
 @ 中 原 300
     計 2941

 (県兵庫) 打安点
 E 外 山 320
 F 菅 沢 400
 D 越 後 300
 A 嘉 地 310
 B 大 賀 300
 H 黒 山 400
 @ 塩 谷 400
 D 石 野 420
 C  峯  220
 H 平 川 100
     計 3170

(飾)0250307
   振球犠盗失併残
(兵)53403011

 ▽三塁打=桂 ▽二塁打=桂、石野、嘉地 ▽1時間55分

〔評〕一回表に飾磨工があげた2点で勝負は決まった。
 飾磨工は一死後、釣が右前打、送りバントで二進。つづく高橋の強い三塁ゴロを三塁手がトンネルして1点、そのあと桂の右中間二塁打が出て、一塁走者高橋が一挙ホームインして2点目。しかし、その後は再三の好機に決定打を欠き、追加点をあげることが出来なかった。

 一方、兵庫はさして威力があると思えぬ飾磨工・中原の浮き上がるボールに手を焼き、七回の一死満塁の絶好機にも二、三番が三振に打ちとられて完敗してしまった。

64陽会(昭和52年卒)
 平川 隆三    二塁
 嘉地 克行    捕手
 菅沢 弘行    左翼
 金  志煥    一塁
 (旧姓大賀茂)
 岩崎 周子    マネ
 

☆菅沢弘行氏 昭和52年卒、64陽会

 私が入学したころは伝統ある野球部も壊滅状態でした。中学の先輩に誘われて入学式前から、練習試合に出たりしておりました。3年生が3人、2年生が5人、そして私たち1年生が5人。中学時代の野球経験者が半分程度なので、1年生の中でも経験者は基本的にレギュラーになりました。

 しかし、昼休みのグラウンド整備やボール縫いは1年生の仕事で少ない人数では大変だった記憶があります。
 その中でも一番の思い出は、新チームになった1年の秋の県大会で報徳学園と延長12回の末2−3で敗れた試合です。

 片や部員100人の強豪、こちらは部員10人、しかも野球経験者は半分。相手チームの応援席には溢れんばかりのユニホーム姿の部員が、こちらは守りに就くと、監督と控えの選手が2人ベンチに座っている光景を今でも覚えております。

 私はレフトを守っていたので、大きなフライが何度も飛んで来ました。エースの上山君は高校で野球を始めたのですが、巧みにコントロールのいい変化球を駆使してポップフライを打たせていました。

 9回表に1−1に追いつき延長戦に。11回1点先行しましたが、やはり底力の違いですぐその裏に追いつかれ、12回裏に二死満塁から二塁強襲ヒットを打たれサヨナラ負けを喫しました。

 報徳にとって三流チームの我校に苦戦したのが余程悔しかったのでしょう、翌年の5月に練習試合を申し込まれコテパンにやっつけられました。

 2年、3年となるに従い、1年生が10人以上入部するようになり、また、野球経験者の比率も増え、野球部らしくなって来ました。
 結局、卒業まで続けたのは4人だけでしたが、最後まで頑張り続けて本当によかったと思っています。